カトリーナがニューオリンズで開けたパンドラの箱

Wednesday, August 31st, 2005  (Survival In New Orleans)
「9:35a Chaos
I mean, it's Lord of the Flies out there right now. There's no order at all. No respect for private property, no respect for life. 」

(私訳)

「9時35分 カトリーナによる無秩序
要は、外はゴールディングの「蝿の王」そのものだよ。ここに今秩序はない。私有財産も人命も虫けら同然だ。」

民法の206条をご覧下さい。

第206条〔所有権の意義・内容〕

「所有者は法令の制限内に於て自由に其所有物の使用,収益及び処分を為す権利を有す」 

人を売り買いする奴隷という制度が認められていた時代、社会を形作るには物権さえあればよく、そしてそれで十分でした。

物権は最初物ばかりか人間をも直接支配できるシンプルかつ凶暴な権利だったのです。

そして「人間ならば、どのような人も誰もが人間である」という当然の事実に気がついた近代にあって、法は人格は法律によって誰かに支配を受けない物であることを宣言しました。

ここで物権の万能性は一段下がり、その対象は物だけに絞られることになりました(206条)。

そしてその結果、誰かを自分の会社の為に働かせたりするなど、一定時間他人の行動を支配するには彼の自由意思に基づく労働契約を結ぶことになったのです。

つまり近代社会は、私有財産の保障という名の物権と、契約の自由という名の債権が両輪となって形作っていることになります。

物権が物だけを対象にしているのは、人間の権利が一歩前進した歴史の足跡です。

しかし「人格」もただの概念である以上、それを当事者同士が力関係によって押し広げたり引っ込めたりしはじめることに時間はかかりませんでしたが、それではいつまで待っても人の幸福は実現できません。

そこで現在ではより本当に実感できる人間らしい幸福をあなたや私が得られるよう、現代の物権法は債権法とともにより実質的な社会バランスを模索しています。

ウィリアム・ゴールディングの「蝿の王」は、無人島にたどり着いた少年達が用意された秩序のない中で、死ぬことの恐怖がどんどん理性を捨てさせていく様子を描いた古い小説です。

カトリーナという名のハリケーンが襲ったニューオリンズにいる人の上記ブログによれば、カトリーナがもたらした混沌が広がるニューオリンズでは人の尊厳と所有の保障に対して一切敬意が払われることがなかったのだとか。

警官による略奪なども記述があります。

歴史は人を物権からやっと解放し、強力すぎる債権の支配からも自由にしてやろうとしているところでした。

闘犬がいくら改良されてもすぐに闘争本能をとりもどし赤子の首を噛んでしまう事故が絶えないように、人も又その理性とせっかくの法の歴史を棚上げすることになんのためらいもない特性を秘めた生き物なのだということかもしれません。

法理メール?