保護司の無給と責任のとらせ処

女性に首輪で3カ月監禁、24歳無職男を逮捕・警視庁

保護司法11条1項をご覧ください。

第11条(費用の支給)

「保護司には、給与を支給しない。」

なぜ国家は、あなたが人を殺した時、場合によってはあなたを法律の名の下に合法的に殺すことができるのかという議論のことを、刑罰論と呼びます。

そして刑罰論は、大きく分けて「応報刑論」と「目的刑論」が対立しています。

応報刑論は、刑罰を社会からのカウンターパンチだと考えます。

社会に食らわされただけのパンチを逆に犯罪者にお見舞いするのだと考えるため、犯罪者がやらかした行為以上の刑をお返しすることは御法度になります。

一言で言って「ジャスティス」です。

これに対して目的刑論は、刑罰を用意しておくことは、その威嚇力で犯罪を防止するためであると考えますが、さらに目的刑論は、一般予防論特別予防論に大別されます。

このうち一般予防論は威嚇力が一般人に向いていると考えることに対して、特別予防論は、刑罰とは、罪を犯した犯罪者自身に対する威嚇であり、これが再び犯罪に陥ることを防止しようとするものだと考えます。

特別予防論に至っては、刑罰が「リハビリ」として語られることになります。

20世紀社会ではリハビリ的に刑罰を構成・分析する態度が好感をもって語られました。

そのほうがよりリベラルな匂いがしますし、人間の品性は右肩上がりによくなっていくと信じられていたからです。

しかし教育刑の前にも犯罪率・また再犯率は遠慮なく高くなっていくのを見て、「刑はリハビリである」という特別予防論は徐々に信頼度をなくし、「刑にジャスティスである」という応報刑論の支配を待望する声が濃くなってきました。

「ジャスティス」つまり「やられた分だけやりかえす」という考え方は「やられた以上にはやり返さない」という考え方を導くことに注目が必要です。

なぜなら逆に刑が「リハビリ」ならば、矯正に必要とあらば犯罪者がやらかした行為以上の刑罰を科することが可能になるからです。

そして戦争に負けるまでの私たちの国では、主に刑は「リハビリ」として語られ、恣意的に必要以上の刑罰が科されてきました。

これを反省して、現在私たちの国では、ジャスティス(応報刑論)をベースにしながらも、そこに同時にリハビリ(予防効果)の存在も認める相対的応報刑論が多数説だといわれます。

つまり現在の刑罰論上の通説は、何故、国が私たちを罰するのかという問いに対して、「刑罰はジャスティスであり、かつ同時にリハビリするからこそ正当化される」と答えるのです。

刑法改正によって、はじめての執行猶予者も裁判所の裁量によって保護観察に付せられることになり、成人の執行猶予者に対する保護観察が開始されました。

そして執行猶予による保護観察者を犯罪者予防更正法による少年や、仮出獄者等と区別するため執行猶予者保護観察法が設立されましたが、この法律によって執行猶予による成人の保護観察者は、保護観察の態様がより軽くなり、住居移転または一カ月以上の旅行のときは、あらかじめ保護観察所長に届け出ることしか実質上守るべきことがなくなりました(あとは善行をすること)。

この意味で保護観察法下にある成人の保護観察者は、刑罰の持つジャスティスとリハビリの二面のうち、特別軽いリハビリを受けている人たちということがいえます(私的解釈)。

そして現在の私たちの社会では、この保護観察下にいたはずの人たちの再犯による悲劇が紙面を常ににぎわしています。

世論はあたかもカントの純粋応報刑論を待望しているような様相さえ見せはじめています。

私は教育刑(リハビリ)は、本当にそれ教育をする気がある人が、ちゃんと受給を受けて、つまり社会的責任を負ってする時にはじめて成果をあげる気がしています。

少なくとも保護司法11条にいうように「民間の篤志家が無給で行う」というのは、保護司を受命した人の形式上の実績にはなろうとも、犯罪をどうしても犯してしまう人のリハビリになるとは思えません。

私がロンドンのクラファムコモンで寄宿していたアパートの大家さん(インド人のおばあさん)は、私が持ち込む相談事にいつもこう言い返していました。

「It's not my business!(それは私の知ったこっちゃないよ!)」

教育刑をだれかのビジネスにすることが急務かと考えます。
 

 
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