年をとれば自由は濃くなる

宇宙の始まりはしずく? 「クオークは液体」と発表(朝日新聞)

「物質を形づくる究極の基本粒子クオークは超高温でバラバラになるが、気体のように自由に跳び回るのでなく、しずくのような液体状態にあったと考えられる、と発表した。」

 

刑法の39条をご覧ください。

第39条(心神喪失及び心神耗弱)

心神喪失者の行為は,罰しない。
2 心神耗弱者の行為は,その刑を減軽する。」

 

わたしやあなたは、右も左もわからない人の行為を刑法上罰しないことに同意しています。

それは彼にはあきらかに自由意志がないからです。

ではもし普通の自由意志を有する人が反社会的行為を犯した時には、私たちは一体何を罰しているのでしょうか。

すなわち、その行為の選択でしょうか、あるいは行為が引き起こした結果でしょうか。

これに関して刑法はいずれの基本書にも、その冒頭で決定論と自由意志論という哲学上の大命題を挙げることになっています。

そして刑法を学ぼうとする人達は、その時点で自分がどちらの学説に立つのかという一大決心をいきなり迫られることになっています。

さあ、ここで思考実験として僕が暮らす恵比寿に無政府世界が出現したと仮定してみましょう。

それはなにをしようが自由な世界です。

精密なアナキズムにおいては、そういう状態で自然発生する原始秩序を期待するのかもしれません。

しかしながらせっかくのその自然秩序も、いろいろな人が存在して衝突が予想される以上、成文・不文を問わず早晩日本語にその姿を定着されざるをえません。

それは法を捨てたはずの恵比寿に、また法律が皮肉にも自由への渇望を原動力として再び立ち上がる瞬間です。

結局アナキズムの目指す政府がないという自由は、その本質を尊ぶほど”不自由というシェル”をできるだけ薄くまとおうとすることになります。

では現実の世界に戻って、わたしやあなたの法が現に守ろうとしている自由とは、いったい何をさすのでしょうか。

もしそれが純粋自由を意味しないのなら、おそらく法の目指す自由とは、人が自己を実現するため因果律というベクトルから自由になろうとする運動のことを指すのかもしれません。(極私見)

そしてそれを実現する道具こそ言葉であり、言葉で作られた法律だったはずです。

もし宇宙がたった一滴のしずくからはじまったのだとしたら、そこから前には時間が存在しないということになります。

もしそうならば、わたしやあなたの因果律は最初の”因”を失うことになります。

つまり、しずくは誰もたらしていないということです。

そしてその途端、自由意志論という縦軸は新たな輝きを獲得し、刑法 39条がうたう”自由意志を持たない人は罰せず”の法理を、意外な角度から納得できるような気がしています。

  

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