京都で松明が灯った

京都議定書発効:温室効果ガス削減に法的拘束力(毎日新聞)

京都議定書の第3条第1項をご覧下さい。

「第三条(数値目標)

1 附属書Ⅰに掲げる締約国は、附属書Ⅰに掲げる締約国により排出される附属書Aに掲げる温室効果ガスの全体の量を二千八年から二千十二年までの約束期間中に千九百九十年の水準より少なくとも五パーセント削減することを目的として、個別に又は共同して、当該温室効果ガスの二酸化炭素に換算した人為的な排出量の合計が、附属書Bに記載する排出の抑制及び削減に関する数量化された約束に従って並びにこの条の規定に従って算定される割当量を超えないことを確保する。」

(意訳:とにかく2012年までに1990年当時より5%二酸化炭素を減らそう)

これが京都議定書で最も重要な項目であるともいわれる数値目標で、あと7年で各国が達成すべき目標が具体的に取り決められています。

環境問題の最大の課題は、それがどうしても我々の中で目前の課題と比較して重要度・緊急度を高く付けられないところにあるのではないでしょうか。

平たく言えば、食べていくのが先だということです。

しかし本議定書に参加しなかったのは決してそうした目前の問題が山積している発展途上国といわれる国々ではありません。

アメリカです。

彼の国に暮らしますと、生まれてから死ぬまで、なにもかも代金を請求される仕組みが骨身にこたえてウンザリすることがあり、食べていくのが先だというルールは、果たして本当に消費者の選択だったのか疑わしくなります。

帝国主義のはじまりは、国内では使い切れない商品や資本を取り除くべく海外市場や海外投資を求めることによって、余剰な富のフローのためのルートを拡大しようとした経済活動がはじまりです。

資本主義国が自国の未利用の富の販路を求めて競争する強欲なプロセスを通じて、帝国主義は戦争への道を切り拓きます。

つまりアフリカを、インドを、中国を、誰がどれだけしゃぶるのかという殺し合いに発展したのです。

京都議定書は確かにアメリカが望むようなアダム・スミスの設計した資本主義の野放図な発展にはそぐいません。

しかし逆にいえばこの一見人のいい取り決めは、資本家でない市井の我々が主導権を取り戻す新しい松明になりえる可能性があります。

煽られてする消費だけを否定すればよいのですから。
 

法理メール?