再上告:光市基準

「18歳1か月」の犯罪に極刑、変わる供述の信用性否定(読売新聞)
「裁判長は、元会社員の主張を「不自然で不合理」として次々と退けたうえ、「供述の変遷が見られ、虚偽の構築で、信用できない」と述べた。被害者を殺害後、乱暴したことについて、元会社員は「山田風太郎の『魔界転生』という小説で、乱暴することで復活の儀式ができるので、生き返ってほしいという思いがあった」と供述。これに対し、裁判長は「小説は瀕死(ひんし)の男性が女性と性交することにより、女性の胎内に生まれ変わるというもので、内容が供述と相当異なっている。生き返らせるためという供述は到底信用できない」とした。さらに、「復活の儀式」のために乱暴したとする点についても、裁判長は「生き返るということ自体、荒唐無稽な発想」と一蹴(いっしゅう)。「乱暴後、すぐに遺体を押し入れに入れており、被害者の脈や呼吸を確認するなど、生き返ったかどうか確認する行為を一切していない。被告が実際にこのようなことを思いついたのか、甚だ疑わしい」と供述の信用性を否定した。」

刑事訴訟法の405条をごらん下さい。

「第405条
 高等裁判所がした第一審又は第二審の判決に対しては、左の事由があることを理由として上告の申立をすることができる。
1.憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること。
2.最高裁判所判例と相反する判断をしたこと。
3.最高裁判所判例がない場合に、大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所判例又はこの法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所判例と相反する判断をしたこと。」

判例法主義を採用しないわたしたちの社会では、判例というものは正式な法的拘束力をもっていません。

判例はあくまで判断の前例であり、法そのものとは規定しえないのです。

しかしながら判例というものの法解釈が、わたしたちの社会に予測性を与えることで事実上の拘束力を及ぼすこともまた現実です。

この意味で裁判所内で働く判例を統一しようという機能には、重要な意義があるといえます。

つまるところ判例というものは、法未満ギリギリを上限として、司法の村で代々唱え継がれる権威ある呪文以上の役割を担っているといえそうです。

たとえばかつてわたしたちの最高裁判所は、死刑の基準について、いわゆる「永山事件」で一般的適用基準を明らかにしています。

その内容は「死刑制度を存置する現行法制の下では,犯行の罪質,動機,態様ことに殺害の手段方法の執物性・残虐性,結果の重大性ことに殺害された被害者の数,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき,その罪責がまことに重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には,死刑の選択も計される」とするものです。

この呪文はわたしたちが法律にのっとって誰かの首を吊す手続きとして、これまで裁判官達に厳格に踏襲されてきました。

もし今回の元少年による光市母子殺害事件判例が、このいわゆる永山基準と相反する判断をしていると弁護団が判断するならば、一応そこには再上告の道が刑事訴訟法405条によって用意されているといえます。

判例というわたしたちの社会において重大な役割を担う装置に対する手当として、当然とはいえるでしょう。

しかしながら405条2号にいう「判例と相反する判断」とは,原判決に示された法律判断が比較の対象となる判例の法律判断と相反することをいうため、もし前提とする重要な事実関係が異なるときは比較対象の前提を欠くことになり、判例違反の主張が不適法と判断されることになります。

そして実際にはこの処理により不適法とされる場合が多いようです。(以上参照:条解 刑事訴訟法

扇動を報道に編み込むTV局や、被告人への苛烈な感情を口にする市民をして、愚呼ばわりすることは逆にたやすいといえるでしょう。

ただ何もかもを論ずるその前に、法はあるべくしてあり市民感情を高みから咀嚼するのか、そもそも社会をなんとか運営していかなければならいという市井の人々の感情群が理論をまとって法の起動と成熟をなさしめてきたのか。

そこに思いを及ばすことは、えらい人にもえらくない人にもいくらかの意義があるはずです。