小池百合子大臣“防衛省の天皇”を突然クビにした裏に…(LivedoorNews)
「小池防衛相のトップダウン人事で、クビを切られた守屋武昌事務次官(62)。4年を超える異例の長期在任により、省内で“防衛省の天皇”と畏怖されるほど強い影響力を誇っていた。「本人は次官続投に意欲マンマンで、かねて飲み友達の小池大臣に取り入ろうと必死でした。初登庁日は女性自衛官が花束で出迎えるセレモニーを発案、週刊誌のグラビア取材には、大臣のバックに選りすぐりの“イケメン”自衛官を揃えた。そんな抜け目のなさが功を奏し、今月1日で在任期間が5年目に突入。安倍首相にも食い込み、『内閣改造後も次官続投』との見方が支配的だっただけに、『何があったんだ』と波紋を広げています」(防衛省関係者)」
行組法の18条2項をごらんください。
第18条 「2 事務次官は、その省の長である大臣を助け、省務を整理し、各部局及び機関 |
国家行政組織法18条2項によれば、事務次官とは、大臣を助け、省務又は庁務を整理し、各部局及び機関の事務を監督する人のことです。
事務次官は国家公務員法上一般職の国家公務員であり、その任命権者はあくまで各省の大臣のはずですが、現実には事務次官は官僚の総理大臣と呼ばれるほど強大な実権を確保しています。
なぜそのようなシステムができあがったのか、以下「官のシステム (行政学叢書) 大森彌 東京大学出版会」を参照してみましょう。
法律を司る裁判所を司法、法律を立てる国会を立法と呼ぶように、法律を実行する役所を明治初期には”行法”と呼んだ時期がありました。
しかしやがてその行法は、政(まつりごと)を行う最高官、「輔相」(現在の内閣総理大臣)の下に吸収されることとなります。
輔相の任務は天皇を補佐することにありましたので、天皇の官吏達には”様”がつけられて、「官員様」と呼ばれていました。
そして幕藩体制も終わり登用の道が広く開かれると、大量のエリート達が官員を目指しはじめ、官員の楽園が形成されていきます。
明治時代、天皇の官吏は陛下のお召しがあれば、二四時間いつでも馳せ参じ、忠義を尽くし、それへの恩顧として俸給をいただくものだと考えられていました。
彼らはかつて”天”に仕えることで、世俗からお上と呼ばれていたのです。
神であるはずの天皇に仕えていた官たちにも、この詔書は構造的にインパクトを与えました。
しかも天皇主権から国民主権への転換によって、天皇の官吏は国民に奉仕する公務員になるという一大転機を迎えたのです。
かつて官員様と呼ばれた彼らは、新憲法の下で自らの存在意義に動揺を憶えた筈です。
行組法18条2項も、官の頂点である事務次官といえでも最早特別な存在でないことを記述しています。
ただ意外なことに、憲法は変わっても官のシステムは残存しました。
それはGHQが、間接統治に官吏機構を使ったため、その改革が不徹底になったのが原因なのだといいます。
たとえ憲法がかわろうとも、あるじが神から民へ変わろうとも、その民が選出した議員が公僕である彼にクビを言い渡そうとも、それを容易には受け入れない城壁を受け継いだ帝国、そこが官の世界です。