自己はどこにあるのだろう

六本木キャバクラ社長ら逮捕=店員を監禁暴行、重傷-ホステス他店紹介で・警視庁
「ホステスを他店に紹介した男性店員を監禁、暴行し、重傷を負わせたとして、警視庁麻布署は25日までに、逮捕監禁致傷容疑で、東京都港区六本木の有名キャバクラ「チック」社長瀬戸晴夫容疑者(35)=世田谷区世田谷=と男性店員3人を逮捕した。同容疑者らは容疑を認め、「男性が、自分がスカウトした女性をよその店に回したため、腹が立った」と供述しているという。」

刑法の220条をごらんください。

第220条(逮捕及び監禁)

「不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、三月以上七年以下の懲役に処する。」 

監禁とは、人を一定の区域内に置いて、そこから脱出することができないようにすることをいいます。

それは脱出が絶対に不可能である必要はなく、とても難しければ不法監禁罪になります。

手段は暴行・脅迫によらなくても、例えば勘違いを利用しても不法監禁にあたります。

逮捕・監禁という罪は、わたしたちの身体活動の自由を誰かによって奪われないために設けられた概念です。

実はその条文がどんな利益を保護する一条なのかをめぐっては、「行動したいときに行動できる自由を保護しているのだ」と考える可能的自由説と、「現実に行動に移したときに自由を妨げられない利益だ」とする現実的自由説とが学説上対立しています。

そして判例や学説上の通説は「監禁罪は行動したいときに行動できる自由を保護しているのだ」と解釈しています。

それは身体を一個の物質として見るのではなく、わたしたちという本質を乗せたそれぞれの身体が移動を開始しようとした刹那、すでにそれが可能であるという状況確保への司法的価値判断だと思われます。(私見)

そこに存在する議題は、身体の両義性(引用:法と身体 森田成満)という言葉に置き換えることが可能です。

かつてガブリエル・マルセルは身体の両義性について「存在と所有 (1970年)」のなかで語っていますが、哲学者鷲田清一はそれを要約し、以下のように述べています。

「ひとが「もつ」ことのできるもの、あるいは「所有」することのできるもの、それはガブリエル・マルセルも言っていたように、そのひとにとってなんらかの意味で<外>にあるものであ[る]。…そのとき、「わたし」にとっての外側が皮膚の外側であるとすると、「わたし」は皮膚の内側、つまりこの身体であると考えられていることになる。「わたしは身体である」というわけだ。これはとりもなおさず「わたしは身体をもつ」のではないということである。」(参照:鷲田清一 悲鳴をあげる身体

現実的な移動が遮断されていなくとも監禁罪が成立するのは、身体の自由を奪われることが、身体を脅かすと同時に、身体よりも奥に存在するわたしたちの本質の、その機能を脅かしてしまう行為だからかもしれません。(私見)

なによりそこには難しい哲学を用いなくとも、「私とは身体であり、また身体以上のものでもある」という身体的な感触が常に存在しています。

もし不幸にもあなたが体の一部を失ったとき、あなたはあなたでなくなるのか、そうでないなら、あなたが重要だと考える体の一部を欠損してしまえば、もはやあなたは誰でもなくなるのか、監禁罪という一条の法益を探っていくことで、わたしたちはたどり着きがたい命題の顔を見ることになります。

 

 

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