群衆:永遠の囚人

図書館の本、傷だらけ…「切り抜き」「線引き」横行(読売新聞)
「各地の公立図書館で、雑誌などから写真や記事を切り取ったり、専門書に蛍光ペンで線を引いたりするなど、図書を傷つける行為が増加している。中には、閲覧室で堂々と雑誌を切り取り、職員から注意されると「どうしていけないの」と反論する人もいる。」

刑法の261条をご覧下さい。

第261条〔器物損壊等〕

「前3条に規定するもののほか,他人の物を損壊し,又は傷害した者は,3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料に処する。」 

図書館の本はレンタカーのように、借りるときに貸し主と借り主がお互いに損壊状態を確認するわけでもなく、まして借りるにあたり対価も発生しません。

つまりそれをまっとうな状態で図書館に返すのは、完全に借り主の善意に任されています。

もし市民の平均的善意が信頼に値しなくなったのなら、わたしやあなたは図書館の本を借りる際、いちいち住民基本台帳の番号を要求されることになるかもしれません。

住民基本台帳制度の真意が行動の記録にないことは現時点で誰にも分かりません)

社会が共有する本を無傷で返せないとき、その人の心はどこかクラスや会社にいる反撃できない人を集団という匿名で痛めつける心理に似ています。

貸し主も公共機関で借り主も市民という集団性を確保できるとき、そこには個人の顔で責任をとるという概念を意識的に回避しようとする群衆心理が働く可能性が存在します。

かつて社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは代表作「群衆心理」のなかで「群衆は、弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する」という、わたしたちが集団になったときの隠しようのない一面を看破しています。

つまりわたしたちの徳性は、個人の顔を捨てるとき、個人でいるときのそれよりもはるかに恥ずかしいものになる可能性をいつも備えているのです。

器物損壊罪は、他人の財産を損壊する行為を罰する罪です。

しかしそれは264条で終わる刑法のもっとも後ろの部類に分類され、しかも親告がなければ罰せられない罪であるとされています。

刑法学上、それは経済的利得性に欠け非難の度合いが低いからだと解釈されています。

しかしより本質的にいって、もはやその領域は刑ではなく、本来羞恥心によって自制されるべき範囲なのだと刑法が諭しているように読めなくもありません。(私見)

図書館の本が傷つけ続けられ、わたしやあなたが本を借りるときよりややこしい手続きをいちいち要求されるようになってから、わたしたちははじめて個人の顔の責任がもたらしていた自由の価値の重大さに思いたるかもしれません。

 

 

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