これが男らしさなのだと、今日も飲酒運転の群れが走る

車転落3児死亡 悲惨な事故直後なのに… 飲酒運転55件摘発 福岡県警取り締まり(西日本新聞)
「福岡県警は28日夜から29日朝にかけて実施した、県内41カ所での飲酒運転一斉取り締まりの結果を、同日発表した。福岡市東区での、飲酒運転による幼児3人死亡事故を受けての取り締まりだったが、悲惨な事故が大きく報じられた直後にもかかわらず55件が摘発されるなど、モラルの低さを浮き彫りにした。」

刑法の第208条の2をご覧下さい。

208条の2 (危険運転致死傷)

「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は十五年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する。(以下略)」 

人間はどのような根拠で、他の人間を罰する刑というものを用意するのかという点について、学説には歴史的な対立が存在しています。

かつてフォイエルバッハらは、合理的な人間がある反社会的行為に対して刑が予定されているにもかかわらず、あえてそれを無視して行為に及んだのなら、その自由意思がゆえに社会は行為者に刑罰を加えられるのだと考えました。

これを刑法理論上、古典学派と呼びます。

一方ロンブローゾらは、社会の構造上、犯罪を犯さざるを得ない場合もあることを斟酌し、「処罰されるべきは行為ではなく、行為者自身の悪い性質なのだ」と考え、刑とはその矯正のために存在するのだと考えました。

これは近代学派と呼ばれる立場です。

ところでわたしやあなたは、徹底的に合理的な行動をとれる人間でもなく、またまったく自身の性質の奴隷となって一日を過ごしているわけでもありません。

そこで現代の刑法理論はどちらの極端な立場に寄ることはなく、一応基本として恣意的拡張の危険性が少ない古典学派を基礎に起きながら、柔軟に近代学派の思考法も採用する立場を通説としています。

危険運転致死傷罪は、飲酒運転による悲惨な事故に対して、用意されている刑があまりに軽いとの声を受け、2001年に施行されたものです。

しかしその厳罰を適用させるには、飲酒運転であったことや、速度超過であったことだけを検察が証明するだけでは足りず、運用が困難であるという点が以前から指摘されています。

(弁護側が”確かに飲んではいたが運転の不安定はむしろ睡眠不足によった”と主張すれば、条文の文言上、危険運転致死傷罪の構成要件を満たさないからです)

それにもまして引用した記事は、悲惨な事故直後であっても人間は酒酔い運転を1件、酒気帯び運転を54件、飲酒運転の基準値には達していないが、呼気中にアルコールが確認され警告した件数を75件も犯すことができる存在だということを事実として物語っています。

もはやこうなると、厳罰の用意が犯罪を一般的に予防するのだという古典学派の理論的期待は疑わしく揺らいでしまいます。

今夜も道路には凄まじい数の自動車が走り、夜の街では凄まじい量のアルコールが消費されていきます。

鉄槌の用意に意味がないのなら、すぐさま社会の構造上の問題点の洗い出しを。

子供たちが見ていたいのは、どちらの刑法理論が正当かという勝負の行方ではなく、すべての大人たちはいつも社会的難問の解法を考え続けているという、懸命な態度のほうであるはずだからです。
 
 
 

*紘彬くん、倫彬くん、紗彬さんのご冥福を心からお祈りします。