なにもかも白濁させたままにしておこう

「ちゃんと質問しなさい」 オシムの記者教育(J-castニュース)
「「マスコミの人がちゃんと質問しないなら、私のほうから今日の試合について話します」サッカー日本代表はアジア杯予選のイエメン代表戦に臨み、2対0で勝利した。オシム監督は、試合後の記者会見でこう切り出し報道陣を驚かせた。なぜオシム監督はマスコミに対して、このような態度を取るのか。この日の記者会見で「2戦目で進歩はあったか」との質問に、オシム監督は次のように切り返した。「私ですか?選手ですか?」マスコミの質問のあいまいさを鋭く突いた発言だ。」

憲法の21条をご覧ください。

第21条

「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。

 検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。」 

車を運転するためには、フロントウインドウから信号の変化や標識、横断歩道などがはっきり見えなければなりません。

ガソリンは十分な量が入っているのか、メーターでわからなければなりませんし、高速道路を走るならETCカードが挿入されているのか、さらにタイヤの振動がシートによく伝わることで空気圧が足りているかを感じることができなければ、不測の事態を呼びかねません。

戦争に負けるまで、私やあなたの車は、大本営発表という名のもと国家という内燃機関が自由にそのフロントウインドウの景色を書き換えていました。

そのため国家という乗り物自身の行きたい方向にドライバーであるはずのわたしたちは連れ去られ、もろとも焼かれることになったのです。

問題は、国家という内燃機関もドライバーという国民も同じ人間という生物が演じているというところにあります。

そうであれば自動車のように、ただ機関を交換しても事故防止にはつながりません。

人が必ず失敗する生き物である以上、国民というドライバーの安全のためには車の全ての状況、進もうとしている方向を把握できる権利があるのだと、機関に向かって圧倒的に宣言しておく必要があるのです。

それが、わたしたちの「知る権利」です。

それは状況の多元的報告とドライバー自身に対する選択肢を存在させることにより、真のダイレクションを把握させる操縦システムであるといえます。

そしてその知る権利は、大部分を”報道機関”というモニターによって実現されることになっています。

もし自動車の内燃機関が(人の業として)また勝手に暴走をし始めるなら、ドライバーにその意図を伝達させないよう、まずこの報道というラインをコントロールしようとするはずです。

逆に言えば車を永劫ドライバーの支配下に置くためには、エンジンのチューンナップの前になによりもまず情報伝達ラインを確実にしておくことが先決になるのです。

憲法」という国家への圧倒的命令が、一切の表現の自由を保障しているのはこのためです。

ただし国民というドライバーズシートに座るのは、国際A級ライセンスをもった人ばかりではありません。

それぞれの年代や育った環境、時代背景の相違があり、たとえそれらが全て同一であったとしても、人は誰一人ひとつの風景から同じ風景を見ていない生き物です。

このためあまりに鋭敏な情報伝達は、各人の運転席に無用な混乱を生んでしまう危険があります。

つまり相手がマスになればなるほど、報道機関というものは最初から情報の鋭度を落として伝達することを宿命づけられています。

記者やキャスターの言葉が常に「総論の総論」、誰からも褒められる言葉に装飾されがちであることも、憲法21条の背負うあまりにも重大な役割を考えれば擁護できないこともありません。

ただし私やあなたという生物には「権力を与えられ次第暴走しようとする」という習性のほかに、もともと「その言葉のほとんどを借り物で組み合わせている」というもうひとつの見過ごせない習性が付随しています。

何故ならば、わたしたちはそうでもしないと限られた時間のなかで上手く進化できないからです。

この習性がいったん報道記者やその集団のなかでしつこく根を張ると、今度はメディアそのものの抵抗属性によって国民まで情報がうまく伝達されないリスクが発生しはじめます。

すべて聞いたようなフレーズで会話して一日を終えることほど、人にとって安心で安全らしく見える処世術は他にありません。

しかしオシム監督は自らが体験した戦争の歴史として、借り物の言葉に依拠することの真の危険性を知っています。

自分の言葉で考えること、言葉そのものも疑うこと、それはわたしたちにとって一番キツい仕事だけれど、果実はそこにしかないのではないかと彼の会見は問いかけています。



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