携帯メールで飛行機を止めた乗客と human being

「携帯命」の不届き乗客、JAL機の出発1時間遅らす(読売新聞)
「同社によると、男性客は、同機が滑走路へ向けて動き出した後も、女性乗務員の注意を聞かず、座席で携帯電話の電子メールを打ち続けた。繰り返しの注意で、やっと携帯電話の電源は切ったが、給湯室まで乗務員を追ってきて胸ぐらをつかみ、「もう出てくるな。顔も見たくない」と言ってつばを吐きかけたという。」

航空法の第73条の4をご覧下さい。

第73条の4

「機長は、航空機内にある者が、離陸のため当該航空機のすべての乗降口か閉ざされた時から着陸の後降機のためこれらの乗降口のうちいずれかが開かれる時までに、安全阻害行為等をし、又はしようとしていると信ずるに足りる相当な理由があるときは、当該航空機の安全の保持、当該航空機内にあるその者以外の者若しくは財産の保護又は当該航空機内の秩序若しくは規律の維持のために必要な限度で、その者に対し拘束その他安全阻害行為等を抑止するための措置をとり、又はその者を降機させることができる。」 

航空法とは、航空機の航行の安全及び航空機の航行に起因する障害の防止を図るための方法を定め、同時に航空機を運航して営む事業の適正・合理的な運営を確保しようとする法律です。(1条)

2003年の改正では73条の4第5項で機長の安全阻害行為を禁止する命令の権限を与えています。

ここでいう安全阻害行為とは、航空法施行規則の164条の15に列挙されており、携帯電話はその4号ではっきりと安全阻害行為に明定されています。

ところでなぜ人は、時に他人につばをはくほど携帯メールに夢中になってしまうのでしょうか。

たとえば、あなたやわたしがどれほどがんばってホームページやブログをせっせと更新してみても、ほとんど誰からもアクセスされることがなければ、何のために書いているのか虚しくなり、やがてはブログを辞めてしまっても不思議ではありません。

経験によって行動が変化することは心理学上「学習」と呼ばれますが、特に「放っておくとほとんどアクセスがない自分のホームページ」という特定の刺激を回避するため、「アクセス向上に効果があるといわれる方法を継続試行」することで、「一日のアクセス数が増えた」という報酬を経験し、反応が強化されることを「オペラント条件付け」と呼ぶそうです。(参照:濱中直行 やめたくてもやめられない脳 ちくま新書

携帯電話やメールによって、知り合いや家族、恋人から一日にたくさんアクセスされるという「経験」を経て、人は「自分はただ存在するだけで無価値なのではないか」という強い疑念から逃避できることを「学習」しているのかもしれません。

そして「メールがあり」、「なにがしかの反応をすれば」「ソサエティに関わっている自分をくりかえし確認できる」という苦痛回避のナイス・アイディアは、なかなか忘れ去ることができません。

未だ自我を確立できない年齢の男女が、寝ても覚めても携帯メールに夢中になるのも、自己無価値感からの回避学習と言い換えられる可能性があります。

そしてそれが行き過ぎれば、携帯をとりあげられると他人にツバを吐くまで携帯電話に依存してしまうという道を形作ります。

問題は、そもそもあなたやわたしという「ホームページ」、アクセス数がなければ無価値なのかという恐怖の正体です。

その恐怖に耐えられず、インターネット上にコンテンツは広告しかなくとも、検索エンジン対策ばかりがしっかり施されたページがあるように、携帯メールを一日中チェックしなければいてもたってもいられない人というのは存在します。

航空法施行規則164条の15もわざわざ携帯電話という言葉を明示したのも、航空機内においてそうした携帯電話から離れられない人達がこれまで問題を起こしてきたことを物語っています。

しかし自分のホームページの真の価値は本来、一日どれくらいアクセスされるか、ほかのどのページから何本リンクされているかといったことでは図れないように、わたしやあなたに一日何本のメールが着信するかは、私たちがただ「在る」ということの価値を左右するものではないはずです。

W.T.ガルウェイもいうように、わたしたちは「Human being」と呼ばれる存在ではあっても「Human Doing」であれとは(もっとも根源的なところでは)要求されていないからです。

きっとわたしたちは、自分が子どもの頃の写真でも机の上に飾っておくなら、一日それほどメール着信がない自分も笑って許してやれるのかもしれません。