ブッククロッシングにみる幸福の所在

米国発 広がる「ブッククロッシング」  (産経新聞)

「街中を図書館に! 読み終えた本をわざとカフェや駅に放置し、偶然手にした人にまた読んでもらうという「ブッククロッシング(BC)」の活動が世界中で広がっている。本には専用のID番号がつけられ、インターネットにアクセスすれば、その本がどのような経緯で自分の元へたどりついたか確認できる。2001年に米国で始まり、150カ国以上、35万人の読書家たちが参加。百九十九万冊の“蔵書”は、今日も世界のどこかで読まれている。」

民法の263条をご覧下さい。

第263条〔共有の性質を有する入会権〕 

「共有の性質を有する入会権に付ては各地方の慣習に従ふ外本節の規定を適用す」

ブッククロッシングは書籍を一所有者に読まれぬまま本棚で殺されることを避けようとする活動体です。

活動体ゆえ活動に主体的に参加するには、彼らのサイトにメンバー登録する必要があります。

そこで日本の民法であえてブッククロッシングという活動の法的性質を分析するため、この活動体を一種の会員制倶楽部に近い性格と一旦仮定してみましょう。

(実際にはブッククロッシング活動は極めてオープンなものです。)

本を街に放とうというブッククロッシング活動のため、ステッカーの貼られた本は、その活動の趣旨を理解する読み手によってどんどん感想文や移転の記録がWEB上に残されていきます。

このとき特定の本の所有権について、なにかのきっかけでもめにもめはじめたとした場合、誰が「それは俺の物だ」と主張できるかといえば、やはりステッカーに観念されるブッククロッシングという活動体に所属するといっておいたほうがより活動内容になじむと考えられます。

ここで物の所有権が団体に所属するときの分析方法は、その団体自身のおびた性格によって所有権の性質も異なってきます。

団体間にあっても個人メンバーの顔が各自はっきりしていて、「その本は我々のものである」といいうる個人主義的状態であるなら、物権法にいう「共有」にあたります。

この場合メンバーは本を各自自由に処分することが理論上可能になります。

かわって、団体がそういったメンバー各自による団体財産の処分を許さないような性格を徐々に帯びてくれば、メンバーの顔も徐々に薄れてきます。

このときの団体財産に対するメンバーの所有権の性質は「合有」と呼ばれるものに変質し、各メンバーによる団体財産の処分などは制限、または禁止されてきます。

しかしいまだこの状態においては、メンバーには確かに持分権を観念することができます。

そしてさらに団体自身の個性が際だつようになり、確かにそれは団体の財産ではあるけれど、各自のメンバーの持分権など観念することが困難な状態まで進んだ場合、メンバーの団体財産に対する所有権は「総有」といわれる形態になります。

団体財産への関わりがメンバーにとって総有にまで退ると、各メンバーは既に団体財産からの収益権能しか残されておらず、自らが加入する会の持つ財産への関わり方は非常に間接的なものでしかなくなります。

日本において、この共同所有の第三段階とでもよべそうな総有というモデルは、農村における入会権に典型的にみることができます。

入会権は集落などで住民が山の草木などを堆肥のために採取する権利などのことをいい、こうした行為はよそ者には許諾されませんが、かといって村民がその権利を勝手に売買することはできません。

村民としても、見ず知らずのよそ者が急に集落の山から草木を採取しはじめてもおもしろくないし、なによりも「その山は集落が所有している」という事実のほうが大切だからです。

これが263条〔共有の性質を有する入会権〕という条文です。

結局、ブッククロッシングという活動におけるたくさんの書籍たちへの登録メンバーの権利は、総有というかたちをとっていると分析するのがもっともなじむように考えられます(私見)。

そして書籍達が団体にはしっかり所属しつつ、各メンバーの持分権、すなわち破ったり燃やしたりできる権利からは守られている総有という法的状態は、本という情報を印字した紙を綴じた個体に対して、所有者だけに知識を届けるという仕事以上の仕事をすることを可能にさせます。

そういった環境を一冊の本に与えようとするブッククロッシングという活動に参加した人達には、知識の享受という二次的利益の前に、本にそうした幸福を与えられるという幸せがはっきりと与えられるでしょう。

そして本好きにとっては、そちらのほうがきっと第一次的な利益であるはずです。
 

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