国会図書館による全サイト保存計画は挫折した

国会図書館、情報保存はお堅いサイト限定 反対多く転換(朝日新聞)

国立国会図書館法の前文をご覧下さい。

前文

国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」

国の政治形式のことを、憲法学上で政体と呼びます。

そして政体を政治の方法から見た視点で、特定の権力者に権力を集中させて国民全員の命運を任せてしまうものを独裁制と呼び、逆に政治を、私たち一人一人の意思を間接・直接的に及ぼして決定する政体を民主制と呼びます。

またそんな二者択一の選択肢はないとして、天皇制国家を是とする考え方のことを国体と呼んだ時代もわたしたちにはあります。

国会図書館ホームページによれば、国会図書館法前文にある「真理がわれらを自由にする」という言葉の原文は新約聖書ヨハネによる福音書」8章32節による「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ)ということばにあり、図書館法制定者が「あななたち」という部分を意識的に「われら」と変えたのだということです。

知識は与えられるものではなく、自ら私たちが望み、獲得するからこそ、真実という事実解釈の向こうにある真理に到達できうるのだという立法者の声が聞こえてきそうです(私的解釈)。

デカルトの薄い本、「方法序説」にでてくる「我思う、故に我あり」という言葉は、「考えられるということは、自分など存在しないという疑義への反証になるのだ」という意味(だと思うの)ですが、まさに人が人たりえるためには、それぞれが考えるという芽を頭の先から発芽させなければならず、それがないとき私たちはただの国家のバッテリーに成り下がる危険があります。

そして私たちを発芽させるための雨水が、この世のあらゆる資料、図書、記録へのアクセス容易性であり、それが「あらゆる」ものではないとき、わたしたちはある一定方向、たとえば観賞用の四角いスイカのように育てられてしまう、存在の本意を遂げられない命になってしまいます。

善悪の判断の前の、「あらゆる」資料であることがポイントで、国会図書館が日本発のWEB資料を全て網羅しようとした冒険的試みは、まさにこの国会図書館法前文の趣旨を突き詰めた判断だったと思います。

しかし今回のニュースでは「あらゆる」という部分がそがれることになっており、せっかくの企画がただのお役所仕事に成り下がってしまわないものかが危惧されます。

個人的には、憲法の精神をもっとも色濃く反映しているといわれる国会図書館法前文に一度立ち返って、本当に「考える」ことのできる人たちに立場を超えて深い議論をしてもらえればと思っています。

人に「考える」という行為の意味を忘れさせ、私たちが私たちとして命の本意を発芽させることのできない時代の再来を警戒するように、国会図書館には今も「真理がわれらを自由にする」という言葉が大きく掲げられ続けています。
 

 
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