ドメスティックバイオレンスと張り子の憲法

米MS、中国でブログ検閲に協力 「自由」「民主主義」など禁止(産経新聞)
「AFP通信のインターネット版によると、「自由」「民主主義」「人権」「台湾独立」などの言葉を含む意見を書き込もうとすると、「それらの言葉は禁止されています。他の言葉に置き換えてください」とのメッセージが表示。中国政府にとり好ましくないテーマの書き込みはできない仕組みになっているという。」

大日本帝国憲法の第29条をご覧下さい。

第29条

「日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す」

あなたのおうちのおとうさん、酒癖が悪くていつも子供のあなたやおかあさんに暴力をふるっていたとしましょう。

顔を腫らしたあなたやおかあさんは、お酒を飲まなければ働き者の物静かなお父さんについて近所で悪い噂を立てて欲しくありません。

そこでお母さんは井戸端会議では「うちの主人は子供に甘すぎて困るんですよ」となどと家庭内憲法を対外的に発布することに今日も躍起になります。

かつての私たちが使っていた大日本帝国憲法の29条にも、また現行の中華人民共和国憲法35条にも、外部の人間からすれば「言論の自由」がしっかり詠われています。

しかし明治憲法で権利や自由が与えられたのは天皇に服従し、従属する国民だけでした。

明治憲法の各所に「法律の範囲内なら」という文言の檻が立っていたのは、一個人の自由は国家がその太っ腹の範囲内で与えているというスタンスだったからで、当時の権力者や、また国民自身もそれが当然だと思っていました。

これを法律の留保と呼びます。

当時の私たちの権利や自由の保障は、権力者の許容範囲外では認められることはありませんでした。

その全体に法律の留保が設置されていた旧憲法は、人の自由が国家の前にあることを認めない憲法であり、それでは結局のところ、憲法本来の権力の濫用から個人を保護するという機能が期待できませんので、憲法とは名ばかりの有名無実なものだったといえます。

フランス人権宣言もその16条で「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」として、憲法に有実なものと無実なものが生まれうることを暗示しています。

無実な憲法は、もはや対外的体裁をとりつくろうためのお母さんの井戸端会議と同義であり、事実明治憲法は、開国直後の日本政府が「憲法のない国は野蛮人の国である」という国際社会の共通認識の壁を乗り越えるため、初めて日本に見繕った憲法という名の張り子であり、その証拠にもっとも恐い権力である軍部は、憲法の支配外に配置されました。

「お父さんはいい人なんです。(お酒を飲まなければ・・・)」というわけです。

憲法に書かれている文字の羅列が対外的効果を狙ったものにすぎず、検閲という暴力が家庭内の実質的な憲法であるうちは、おかあさんやあなたの顔からあざが消えることはないでしょう。

あなたが思春期に入り自我が芽生え、「私たちはあなたの稼ぎで暮らす人間である前に、一個の大切な人間なんだ」とお父さんに宣言し、お母さんを守ろうとするまでは。
 

 
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