「iPodからも金を取れ」――私的録音補償金で権利者団体が意見書(ITmedia LifeStyle)
著作権法の30条2項をご覧ください。
第30条(私的使用のための複製) |
30条はもともと音楽など著作物の私的使用を原則許可している条文です。
そのうえで「次に掲げる場合を除き」として例外的に私的使用でも対価が要求される例をあげています。
今回ipodにはこれを含めた価格を上乗せし、その分を著作権団体に回せとの要求がではじめています。
あなたのは胸にはこれを聞いてどんな感情が湧いたでしょうか。
一般に私たちの暮らすアジアでは、西欧にくらべ権利意識が未発達であるといわれます。
そもそも”権利”とは、その人に当然用意されるべきスペースのことです(私的定義)。
あなたがもしロンドンに出向いたことがあるなら、100年も前から走るその古い地下鉄の長いすが、既に肘掛けで一人分ずつ区切られているのを見たことがあるでしょう。
また西欧には映画館に立ち見というものがありません。
そもそもそういう発想がありません。
それが一個人から空間を設計する時の単位、”権利”です。
命による空間(社会)への要求と言い換えられます。
逆に私たちの国の電車の長いすは極狭い範囲を一人分づつ色分けがされているだけで、混み合っているときは他人と密着して座ることが強制され、ラッシュ時や帰省電車では乗客が非人間的に詰め込まれますし、人気の映画には立ち見させられるのが当然です。
これが全体優先で個の命に変形を要求している社会です。
注意すべきなのは、個の要求と社会の調和要請は完全に対等な立場ではなく、個人から正当なスペースの要求には譲歩できない部分があるというところです。
これを自然法思想といいます。
全ての法律は、個からの要求と、全体から調和要請のバランスで作られていますが、個からの要求が自然法のときはより厚く保護され、それが作為法のときは自然法と比べ全体との調和可動性の範囲が大きくなります。
著作権法という作為法において、自由軸の要求は、本や音楽を作った人たちからの正当な対価の要求であり、対して社会軸は著作権者が主張をどこまでも押し通すことで社会が停滞することを回避しようとする要求です(私見)。
HDDプレーヤーには音楽でないファイルの転送なども可能ですが、音楽を聴くことが明らかに主目的である以上、30条 2項の守備範囲にいれるのは肯首できます。
しかしパソコンのHDDにまでそれを及ぼそうとするのは疑問をぬぐえません。
HDDの主目的が音楽ファイル貯蔵であるはずがないからです。
30条2項には「録音機能付きの電話機その他の本来の機能に附属する機能として録音又は録画の機能を有するものを除く」との明記があります。
これは”権利”と”調和”を分ける分水嶺の一行です。
音楽が貯蔵できればなにからなにまで請求するという態度は、せっかくアジアである日本でも育ってきた著作権法に対する社会的合意を奪いかねません。
拡大解釈の連続は市民意識を疎外して、法があらぬ方向へ一人歩きを始める契機にはならぬかが心配です。