異形の少年というスイッチと、やわらかい刑法

写真店主殺害:16歳少年逮捕「誰でも良かった」 和歌山毎日新聞
「24日午後7時半ごろ、和歌山県高野町高野山、久保田写真館の台所で、経営者の久保田耕治さん(71)が血を流して倒れているのを近所の男性が発見し、119番通報した。既に死亡しており、県警橋本署が殺人容疑で捜査を開始。同11時ごろ、同県在住の高校2年の少年(16)が「高野山で殴ってけがをさせた」と大阪府警四条畷署に出頭し、25日未明、県警に殺人容疑で逮捕された。少年は「(久保田さんが)死んでもいいと思った」「むしゃくしゃした気持ちを晴らすため、誰でも良かった」と供述しており、橋本署は動機などをさらに追及している。」

憲法の31条をご覧下さい。

第31条〔法定手続の保障〕

「何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪はれ,又はその他の刑罰を科せられない。」 

1828年聖霊降霊日の翌日、少年は突然現在のドイツのバイエルンである、ニュールンベルグの町中に汚い身なりで現れました。

直立することも足を動かすこともままならないようでしたが、なんとか前に進もうとしているようでした。

言葉を話せない少年を街の人達や警官達は訝しみましたが、紙とペンを持たせると「Kaspar Hauser」とためらいなく名をしたためたため、それ以後その野生児はカスパー・ハウザーと呼ばれるようになりました。

彼の手には奇妙な手紙が握らされていました。

一通には「この子は 1812年 4月 30日に生まれました。私は貧しい娘でこの子を育てることが出来ません。この子の父は既に死にました。」

今一通は「あなたに忠実にお仕えする一人の子供をお送りします。この子は1812年私の家に置き去りにされていた子です。私は10人の子供を抱える貧しい労務者で家族を養うのがやっとでした。」

どうやら彼は17になるまで、一度も地下牢を出ることなく育てられたらしいということがわかり、町の税金でしばらくは塔のなかで育てられることになりました。

当時の知識層は少年に大変な興味をもち、その後いろいろな人に引き取られることになりますが、ドイツ刑法学の父フォイエルバッハも身元引受人の一人であり、少年の生い立ちや、背景を興味深く調査しています。

少年は徐々に言葉を覚えることと並行するように、たどたどしくも人間らしい感情を取り戻し始めましたが、彼の容姿から、「あの少年は王族の血統なのではないか」という噂も日増しに高くなり、それを裏付けるように二度謎の襲撃を受けました。

実はフォイエルバッハは当時、自由と独立のために筆を執っていたため、これをうとましく思った国王により、アンスバッハの控訴院長に左遷されていましたが、その身分ゆえ少年に関する公にできない情報も多く知り得ただろうことが推測されています。

フォイエルバッハ1832年、それら資料をもとにカスパー・ハウザーに関する本を出版し、そのなかで繰り返し「カスパー・ハウザーはすり替えられた王の子供なのだ」と暗喩していますが、その数ヶ月後フランクフルトで急死しました。

カスパー・ハウザー自身も同じ1833年の数ヶ月後、二度目の暗殺をかわしきれず、フォイエルバッハの後を追うように21歳で命を落としています。(以上参照:カスパー・ハウザー 地下牢の17年 フォイエルバッハ 福村出版

後に近代刑法学の範とされることになったババリア刑法典を起草した彼は、「罪刑法定主義」という重大な刑法の根本原理を産み落としました。

それはあらかじめ罪として定められていた行為でなければわたしたちは罪を問われることはなく、罰されることもないという法理です。

現代に暮らすわたしたちの憲法の中にもそれは31条で表現されています。

罪刑が事前に法定されていない世の中ではわたしやあなたの生きるための自尊心の行方は、王や神の代理人を名乗る人達(官吏)の思惑次第となってしまいます。

罪刑法定主義を刑法の中心に据えるということは、すなわち自分の人生のマスター・キーを王や神の代理人を名乗る人達に渡さないという憲法国民主権原理を裏打ちする効果をもたらしているのです。(私的解釈)

フォイエルバッハ以前の刑法は法律は完全であるという視点から人間を処断し、権力者による恣意的な運用が行われ、身分による不平等な取扱いがなされ、刑といえば死刑か身体刑しかありませんでした。

これに疑問を持ち、動機の重視や情状酌量の配慮をもって人間の側から刑法を再構成することを促したフォイエルバッハの思想には、17年間人が牢獄で生活させられるとどのようになってしまうのかをまざまざと見せつけた、カスパー・ハウザーの生涯が少なからず影響していると考えられます。(私見)

和歌山県で16歳の少年が激情に身を任せて人を殺めてしまいました。

突然現れた異形の少年を前にしたとき、フォイエルバッハが”柔軟な刑法”という新しいフレームワークを拾い上げたように関わるのか、あるいは”不規則分子による不規則事態なのだ”と全く思考の範疇外におくのか、その選択はわたしたちそれぞれに任されています。


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