公職選挙法の中核にある愚民観の歴史

ネット選挙運動解禁へ・来年の法改正に向け月内に自民案 (日経新聞)
自民党は選挙制度調査会(鳩山邦夫会長)にネット選挙に関するワーキングチーム(WT)を設置した。解禁対象はHP、ブログ(日記風簡易型HP)、メールマガジンなどによるマニフェスト政権公約)の掲示・配信、政治信条の表明や選挙運動の日程の告知などだ。」

1935年公布の選挙粛正委員会令、第一条をご覧下さい。

選挙粛正委員会令

第一条

衆議院議員選挙共の他公の選挙の粛正を図る為、道府県毎に選挙粛正委員会を置き、道府県の名を冠す。」

(出展:日本選挙制度史 杣正夫著 九州大学出版会)

杣正夫先生の上記名論文によれば、普通選挙がなかったころ、その法案提出を目指す勢力に対して、第二次桂内閣は政府側の見解を以下のように表明したそうです。

「この普通選挙という理想はそもそも天賦人権という所謂一時ヨーロッパにはやりました所の思想から起りました所のものであろうと存じます。

……で無論人、生れながらにしてこの様な権利などをもっているものではない。すなわち国家がら与えられた賜である。

……立憲の基礎において全然他の君主国と国体を異にしている所の我帝国では到底適応しない制度だと考える次第でございます。

……もしかくのごとき制度をば採用致したならば選挙人の識見が益々下がり

……遂には多数なる下流社会が少数なる上流社会を圧倒せざればやまない所の結果をきたしはしないかというおそれを抱いているのでございまして、政府は徹頭徹尾之に反対を表します」。

国の行方を決める主権は国民にあり、そのために選挙権が皆に与えられていると教えられる現代の私たちの、ともすれば退屈な選挙に対する印象と異なり、普通選挙の導入部においては、「官」は「民」に対する侮蔑意識を驚くほどあからさまにした記録を残しています。

そしてその後普通選挙が二度実行されると、なにしろ初めて行われたものでありその腐敗、つまり現金で票を買う態様には目に余る物がありました。

そこで選挙過程の規制のために政府によって推進された国民運動こそ、選挙粛正運動とよばれるもので、1936年から42年まで実行されていました。

その具体的開催方法はこうです。

○懇談会の開き方。

(イ)まるくすわる。
(ロ)君が代の合唱。
(ハ)発起人側の挨拶。
(ニ)レコード
(ホ)選挙粛正絵ぱなし配布。
(ヘ)粛正委員の講話。内容。日本は道の国である理由、歴代天皇の御仁政、国民の愛国心、一票の重んずべき理由、いたずらな党争は自治や家庭を破壊する、等々。
(ト)懇談。
(チ)輪読。
(リ)宣誓文。

その委員会では、徹底的に「政党政治など国の破壊にしかつながらず、我々は国体を維持する臣民でなければならないのだ」という意思確認を互いに矯正することが要求されました。

此処まで振り返れば普通選挙制度がその発端において、かつての天皇制支配層の抱いた愚民観と、同時に人民への警戒心が敷設したものであることは間違いないようです。

幾多の受験戦争を勝ち抜いてきたという成功の確かな記憶を持つ官僚達から見れば、それを持たない民衆や、彼らに選ばれたにすぎない代議士達が国の中枢にやってくることなどとんでもないことでした。

官は絶対権威であり、民は官が指導すべき服従の地位でしかなく、愚民の代表を拒絶するために初期普通選挙制度の混乱にかこつける形で発布したのが選挙粛正運動だったのです。

よく言われることですが、現在の公職選挙法も、他国ではほとんど例を見ないほどに選挙運動を著しく規制しています。

そして歴史を検証しながら、その規制の皮をタマネギのように一枚一枚剥いでいくと、先輩議員の抵抗というよりも、一番最後に絶対官僚主義という芯が待っているようです。

なぜなら現在でも立法の現実的コントロールは、官僚によってなされているからです。

私たちの社会が普通選挙に要求される「十分な情報享受」という実質的要件を、戦後何十年たっても備えられないその正体は、立法を現実的にコントロールする人達の中にある愚民観にあるといえます。

あなたが今日の今日まで、「官僚はパブリックサーバントである」という童話を信じていたならば、社会の不条理を今日も納得できないに違い在りません。

一旦、「霞ヶ関の行動原理は、霞ヶ関を守ることを第一条としている」のだと観点を変えてみれば、公職選挙法の改正が遅々として進まない事も含め、いろいろな疑問がすぐにでも氷解するはずです。
 


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