大麻取締法のなかに現れる使用不可罰という霊山

【角界大麻汚染】露鵬と白露山「全くやったことはない」 警視庁聴取に(iza)
「ロシア出身の兄弟力士、西前頭3枚目の露鵬(28)=本名、ボラーゾフ・ソスラン・フェーリクソビッチ=と東十両6枚目の白露山(26)=本名、ボラーゾフ・バトラズ・フェーリクソビッチ=の尿からマリフアナ(大麻)の陽性反応が出た問題で、両力士が警視庁組織犯罪対策5課の任意の事情聴取に「(大麻を)全くやったことがない」などと話していたことが3日、分かった。大麻取締法には大麻使用罪の規定はないが、同課は引き続き関係者から事情を聴くなどして慎重に調べを進める。」

 

大麻取締法の24条の3をごらんください。
 

24条の3

「次の各号の一に該当する者は、5年以下の懲役に処する。

1.第3条第1項又は第2項の規定に違反して、大麻を使用した者
2.第4条第1項の規定に違反して、大麻から製造された医薬品を施用し、若しくは交付し、又はその施用を受けた者
3.第14条の規定に違反した者」

 
大麻取締法には栽培罪、輸入・輸出罪、譲渡・譲受罪、所持罪などは規定されていますが、たしかに肝心の使用を罰する規定が存在していません。

24 条の3の1項1号には「大麻を使用した者」という文言が出てきますが、これは大麻取扱者の資格を持たない人が研究のために使用したり、大麻所持を法で許された人が目的以外で大麻を使用することを意味しています。

それは一般人が大麻を吸食する行為を含んでいないのです。

そこで大麻関係の検挙には24条の2、所持罪が常に持ち出されることになっています。

その法律構成ですが、「通常大麻の吸食行為には大麻の入手が前提で、当然に所持が伴うものと考えられ、24条の2にいう所持に当たる」と解釈します。

当然解釈の限界事例も発生しますが、それよりも問題の核心はなぜ、法が使用を直接禁止していないかです。

相当量の法学書籍にあたりましたが、”農家を罰しない””検出が難しい”など表面的な説明を除き、こと「何故大麻取締法には吸食行為を罰する直接規定が存在していないのか」という本質部分を解説する文章には、とうとう行き当たることができませんでした。

それでも吸食不可罰というエリアは、大麻取締法のなかで立ち入ることを禁じられた霊山のように厳然と存在しつづけてきています。

唯一、「大コンメンタール 薬物五法」における24条の3 使用罪の条解において、

「なお,本号の「使用」には,大麻の吸食行為は含まないことは,前条の注釈で述べたとおりである

(植村・90頁は,「吸食行為は,第3条2項の使用に含まれる。」とするが,そうだとすると,大麻取扱者の吸食行為は可罰,他方,大麻取扱者以外の者の吸食行為は不可罰(後述の意義からして研究のための吸食は観念しえないであろう)となり,両者に差を設ける合理的理由が説明できない。

やはり法は,大麻については,その吸食行為を処罰の外に置いていると解する他ないであろう)」

とある箇所に、筆者言外のメッセージを個人的に感じただけです。(薬物五法 麻薬及び向精神薬取締法・麻薬等特例法 (大コンメンタール)

 

結局のところ、法律学的解釈によっては大麻取締法が吸食行為に何故罰則規定を置かないのかを説明するのは難しく、しかしながら法は事実として頑なに吸食行為の法による罰則化を回避してきたということだけはいえそうです。

そしてもしかするとそこから先は、とても特別な分野の書物をひもとかなければならないのかもしれません。


(参照書籍)

抵抗権:デマゴーグを待ちながら

横暴ボスザル、3カ月でクビ 淡路島、いじめに若手反撃(朝日新聞)
「ボスは5年ほどで交代してきたが、7代目で32歳のマッキーは15年にわたってトップに君臨。子ザルや弱いサルに優しく、メスにも人気があったため、長期政権になったという。そのマッキーが今年3月下旬、他のサルに餌を奪われるようになった。他地域の集団にみられるような実力行使によるボス交代の気配はなく、マッキーが身を引いたらしい。センターはナンバー2だった27歳のイッチャンがボスに昇格したと認定。ところが、イッチャンは弱いサルを追い払ったり、エサを奪ったりと、大人げない行動が目立った。メスにも不人気で、毛繕いをしてもらえずに1匹で寝ていることが多かった。6月21日には、ナンバー4だった17歳のタマゴを押さえ込み、しつこく背中にかみついた。その翌日の午後2時ごろ、タマゴ、ナンバー2で19歳のアサツユ、ナンバー3で18歳のカズの3匹が一斉にイッチャンを襲撃。かみつかれるなどして手足や腹に大けがをしたイッチャンは柏原山のふもとにある売店まで逃げてきた。」

憲法の12条をごらんください。

第12条

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

 

わたしたちが不法な国家権力の行使に直面したとき、これに抵抗できる権利のことを憲法学上、抵抗権と呼んでいます。

そして憲法12条前段はその根拠条文になるのだと、学説は説いています。

かつてマックス・ヴェーバーは、その著書「職業としての政治」の中で、被治者がその時の支配者の主張する権威に服従する三つの理由を挙げました。

第一は、国王など「永遠の過去」がもっている権威による伝統的な支配。

第二は、ある個人にそなわった非日常的な天与の資質(カリスマ)がもっている権威で、その個人の啓示や英雄的行為その他の指導者的資質に対する、まったく人格的な帰依と信頼に基づくカリスマ的支配。

第三は、合法性による支配。

このうち指導者というものが天職中の天職であるという考え方が最も鮮明な形で根を下ろしているのが第二の型です。

わたしたちが預言者や議会の傑出したデマゴーグがもつ「カリスマ」に帰依するとは、わたしたちがその習俗や法規を後回しにしても、彼の選ばれしリーダーとしての内面の資質を信仰し、これに服従するということです。

現代、承認してきた膨大な法文に定められた手続きで選ばれる代議士たちに直面しても、これに幻滅することが多いのは、わたしたちがどこかで、もっと陶酔させてくれるカリスマの登場を心待ちにしているからなのかもしれません。

そしてもしわたしたちが社会の仕組みとして彼をより自由にさせる絶対民主主義を採用してしまえば、その投票次第で再びボナパティズムやファシズムヘ移行することも容易です。

そこで現代では自然権を基礎とする立憲民主主義憲法を採用し、専制政体を防ぐと同時に、なによりもほかならぬ私たち自身の「陶酔を待つ心」にブレーキをかけています。

「群衆に生きる一命」とは、それが人でなくたとえ猿として生まれようとも、猿山に不文の立憲民主主義を巡らせるたくましい存在なのかもしれません。

そしてもし、ひとたび待ちわびたはずのゴトーが専横を行おうとすれば、立憲民主に内在する抵抗権をその臓腑から取りだそうとするのです。

 
 

(参照書籍)

一事不再理:主権のリトマス紙

三浦容疑者、3カ月ぶり審理再開 ネット参加も陳述なし
ロス疑惑銃撃事件で米自治領サイパン島に拘置されている元会社社長、三浦和義容疑者(61)=日本で無罪確定=の逮捕状取り消し請求の審理が15日、約3カ月ぶりにロサンゼルス郡地裁トーランス支部で再開された。この日は、インターネットを利用した映像を通じて三浦容疑者本人がサイパンの拘置所から審理に参加したが、意見を陳述する場面はなく、審理にじっと耳を傾けていた。この日の審理で、検察側は「一事不再理」原則の適用の是非について、「米国で問われている共謀罪は日本では存在しないため、同原則は適用されない」と主張。日本の法制度研究の専門家を証人に呼び、立証を試みた」

逃亡犯罪人引渡法の第2条7号をごらんください。

第2条(引渡に関する制限)

「左の各号の一に該当する場合には、逃亡犯罪人を引き渡してはならない。但し、第三号、第四号、第八号又は第九号に該当する場合において、引渡条約に別段の定があるときは、この限りでない。

 七 引渡犯罪に係る事件が日本国の裁判所に係属するとき、又はその事件について日本国の裁判所において確定判決を経たとき。」

 

 

逃亡犯罪人引渡法は,外国から我が国に対して逃亡犯罪人の引渡請求があった場合の引渡要件および手続きを定めています。

もともと日本が締結している二国間の引渡条約としては「日本国とアメリカ合衆国との間の犯罪人引渡に関する条約」と「犯罪人引渡に関する日本国と大韓民国との間の条約」が存在しています。

そしてその上で逃亡犯罪人引渡法は、日本との引渡条約を締結していない外国に対しても相互主義の保証があれば引渡を行いうるものとしています。

そうした法の性質を鑑みれば、日本の引渡に関する法は、引渡条約の締結を引渡しの要件とする条約前置主義を採用する英米と比較してある意味非常に寛大であるともいえます。

ただし法2条7号を見てみれば、「一事不再理」の法理に該当する場合、逃亡犯罪人の引渡しを行ないえないこととなっています。

ここで一事不再理とは、「有罪・無罪の実体判決、又は免訴の判決が確定した場合には、同一事件について再び審理することを許さない」という法哲学です。

それは必ずしも日本独自の理屈ではなく、大陸法も、そしてアメリカ憲法修正5条も「二重の危険」という呼び名により明文でこれを禁止しています。

すなわち、わたしたちの国が誰かを裁いて有罪なり無罪なりの決断を下したにも関わらず、同じ罪で再びどこかよその国がその人物を裁くのだとすれば、その人物の尊厳は国家間の事情次第で著しく損傷することになるからです。

もとより米自治領サイパン島で拘束された三浦和義さんの場合、我が国の逃亡犯罪人引渡法が発動する場面ではありません。

しかしながらひとつの国家が、逃亡犯罪人引渡法という他国との間に立てた法律において二重の危険を禁忌しているのは、ミクロ的に人権を保護すると同時に、マクロ的に国家主権の不可侵を再確認しているからにほかなりません。

個人の運命とは別の次元で、一事不再理というリトマス試験紙が国家主権のありようを揺らしているように見えます。(私見)

 
 

(参照文献)

巨大なおもちゃは先祖返りした

不要と言われれば退く覚悟はできている B-CAS社 代表取締役社長 浦崎宏氏(ITpro)
BSデジタル放送の限定受信システム(CAS)として登場し,2004年に地上デジタル放送などのコピー制御にも広く採用されてから,デジタル放送によるテレビ視聴に欠かせないアイテムとなったB-CASカード。発行元であるビーエス・コンディショナルアクセスシステムズB-CAS社)はそれ以降,事務所就業者数20人程度の小規模所帯でありながら,一躍重大な社会インフラを担う存在となった。一方,その役割の大きさと会社規模のアンバランスさ,不透明な収支構造などに対し,ネット上などではさまざまな噂や批判の声が絶えない。」

放送法の9条9項をごらんください。

「9 協会は、放送受信用機器若しくはその真空管又は部品を認定し、放送受信用機器の修理業者を指定し、その他いかなる名目であつても、無線用機器の製造業者、販売業者及び修理業者の行う業務を規律し、又はこれに干渉するような行為をしてはならない。」


わたしたちの国が戦争に負けるまで、その放送は無線電信法により規正されていましたが、その第1条には「無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌ス」と規定されていました。

戦後、こうした国家の管理があまりにも強い無線電信法は改正を強く要請されました。

日本の放送事業は昭和25年放送法が制定されるまで日本放送協会が独占的に行っていたのです。

昭和20年8月15日、日本は戦争に負けると、昭和21年には総司令部民間通信局から逓信次官に対し放送法を民主的に改正し、軍の統制、影響の痕跡を永久に除去するよう指示がなされています。

逓信省は総司令部民間通信局の指示を受けて、昭和21年11月事務次官を会長とした臨時法令審議委員会を設け通信関係法令の改正に着手しましたが、戦前から存在した日本放送協会に独占放送を続けさせようとするその案はたびたび却下されます。

その後紆余曲折を経て、放送法案は昭和25年4月26日の衆議院本会議で可決され、成立したのです。

日本放送協会はこの新放送法により、あらたに法人格を与えられて民主的な機関として再出発をしています。

終戦直後、日本のあらゆる局面がそうだったように、”国民は国家に管理されるため生まれてくる”という思想を徹底的にその体系からふるい落とすには、多分に漏れず外国による重ねてのゆさぶりが必要でした。

さてそうしてその姿を現した戦後の新しい放送法ですが、その第9条は、協会が行う業務の範囲等についてを規定しています。

そしてその9項は、無線用機器の製造業者、販売業者及び修理業者の行う業務を規律し、又は干渉してはならないことを規定しています。

これは、受信料を財源とする公共的機関である協会がその支配的地位を利用し、民間事業者を支配し干渉することを禁じたものです。

具体的には放送用機器、部品の認定を行い認定製品以外は調達しないなどの措置を講ずることにより製造業者を支配すること等を禁じています。

いうまでもなく、それは戦後に生まれた放送法が徹頭徹尾、放送の民主化、つまり国家の管理からの隔離という目的の為に生み出されているからに他なりません。(私見)

もし日本放送協会が後ろ盾になって設立された民間企業が受信料を徴収するために、「公共放送の万人の受信」を作為的に妨げる機器を審査しているのだとすれば、そもそもの放送法の成り立ちから顧みて、9条9項違反になることは明白だといえます。

 
 

(以上参照)

さようなら赤塚不二夫さん、愛すべきプロメテウス

タモリ「肉親以上」赤塚氏にあらためて感謝(スポーツニッポン)
「「私がこの世界に入ろうとした時に、突然私の前に現れて、デビューのきっかけをつくり、その後の物心両面での援助は肉親以上のものでした」と説明。「あれから32年が過ぎました。色々な出来事、その場面が頭に浮かんでいます。ここに改めて感謝し、ご冥福を祈ります。先生ありがとうございました」と思い出とともに、感謝の言葉で締めくくっている。タモリが知人の悲報に際しマスコミに対応することはほとんどなく、異例のコメント発表は2人の親交の深さをうかがわせた。2人の出会いは1975年(昭50)ごろ。当時無名だったタモリは福岡から上京したばかりで、新宿の酒場で宴会芸などを披露していた。これを見た赤塚さんが「この男を九州に帰してはいけない」と、目黒にある自分のマンションにタモリを居候させた。マンションは家賃17万円の4LDK。月20万円ほど小遣いを与え、赤塚さんのベンツも乗り放題だったという。」

憲法の13条をご覧ください。

第13条〔個人の尊重,生命・自由・幸福追求の権利の尊重〕

「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」

赤塚不二夫さんは少年漫画に大胆な改革を持ち込んだ革命児でした。

しかし単にそれだけに収まらず、タモリさんなどたくさんの才人を世にもたらすため尽力した、ロシアバレエでいうところのディアギレフのような仕事もしています。

赤塚さん自身は人々の記憶の一線から遠のいた後、長い間闘病に苦しんだといいますが、その姿はどこか、人類の恩人である「縛られたプロメテウス」を思い起こさせます。

 

古代ギリシャアイスキュロスが書いたその悲劇では、プロメテウスが、ゼウス神から火を盗み人間に与えます。

そのおかげで人間は現在のように文明を発達させることが出来たといいます。

しかしそのために、プロメテウス自身はゼウスの怒りに触れ、断崖絶壁に鎖をもってつながれてしまいました。

そしてゼウスは罰として、毎日鷲にプロメテウスの肝臓をついばませ、不死身のプロメテウスは永劫その激痛に耐えるしかありませんでした。

しかしながら、激痛のなかでも彼は人間に火を与えたことを、ついぞ後悔することはありませんでした。

 

わたしたちの憲法はその13条前段で「個人の尊厳」の原理を定め、また後段ではいわゆる「幸福追求権」を定めています。

通説的見解によれば、幸福追求権は具体的権利性を有するものと解されているため、この見解によると後段には裁判規範性が認められるという点に、前段と異なった大きな意味を見出すことができると考えられます。

「幸福追求権」の法的性格は、憲法に列挙されなかった「新しい人権」の根拠となる一般的・包括的な権利です。

よってそこから導かれる新しい形の人権には、13条後段により具体的権利性が認められることになります。

わたしたちが一生をかけて追求したい幸福とは、あるときは誰にも威張れるような富を手に入れることだったり、またあるときには有名になったりすることになるかもしれません。

しかしながらいつか必ず終わるわたしたちの一生をかける価値のある幸福があるとすれば、結果的に痛みをともなったとしても、この社会に自分たちなりの幸福を置いていくことであるような気がします。

 

赤塚不二夫さんの6年間の闘病は、ひょっとすると第一線で創作活動を続けた人だけが知るストレスがもたらしてしまったのかもしれません。

だとしてもきっと赤塚さんは人類に火をもたらした恩人、プロメテウスがそうだったように、創造の日々を後悔することなどなかったはずです。

誰が見てもあきらかなことは、どのような闘病生活が晩年に待っていたのだとしても、赤塚さんがもたらしてくれたさまざまな作品や友人が、今日もわたしたちの社会に幸福の火をもたらしてくれているということです。

それが赤塚さんなりの憲法13条後段、「幸福追求権」の行使だったかもしれませんし、もしかすると生きるということは単にそういうことのために与えられた時間なのかもしれません。

赤塚さんの穏やかなご冥福を心よりお祈りします。

 

富の分配とミルの予言

【ライブドア事件】堀江被告、失敗した法廷戦略(iza)
堀江貴文被告を再び実刑とした控訴審判決は、1審判決に続き、「見せかけの成長」を演出し、市場に背いた経営姿勢を厳しく断じた。堀江被告控訴審で上申書を提出し、初めて明確な反省の態度を示した。情状酌量による執行猶予を狙ってのものとみられたが、高裁は量刑判断にあたり上申書をまったく考慮しなかった。強硬だった1審から変化した被告側の法廷戦略は失敗した。」

検察庁法の第14条をご覧ください。

検察庁

14条

法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」

 

個人的には堀江氏になんら好感を持つところではありませんし、確かにライブドアは投資組合を介在させ自社株を操作するなど、投資家を事実上騙すような株式売買の操作を行ってはいました。

しかしながら投資組合をライブドアの実質子会社であるという強引な解釈がなければ、それを迂回した株価操作があっても刑法における罪刑法定主義によりどこにも犯罪は検出されないことになります。

また企業買収の発表が策略的だったという批判もありますが、そもそも商法はいついつまでにその事実を公表せよという条文を定めていません。

それを唐突に偽計と呼ぶには強行な解釈を介在させる必要があります。

さらにもっとも問題視されている粉飾決算ですが、それまでの粉飾決算とは「利益を有していないのに、さも儲かったように会計上見せること」をいいました。

対してライブドアが行った行為は、自社株の売却益を投資組合や買収企業を迂回させ自社の収益のように見せかけたにすぎず、実際には彼らは利益を有していました。

グループ内の利益の付け替えなど、日常的業務のごとくわたしたちの国の企業では行われているのが実情です。

税処理の面でも、国税庁の解釈で大企業が申告漏れを指摘されたなどというニュースは、日常的に報道されているのに対して、堀江氏の税務処理は企業代表としては珍しいほどクリアなものだったといいます。

こうなると堀江氏を決定的に断罪する為には、彼の内心に違法性の認識というものがあったとしなければ他の企業の日常との区別がつけられません。

ライブドア裁判において長く違法性の認識が争われているのはこうしたわけからです。

一説にその強制捜査は、ヒューザーの耐震構造偽装尋問を翌日に控え、国会に別の衝撃を与えるために労された策だったと長く噂されています。

そしてそもそも地方検察庁とは、強固な哲学の元に行動することが許された思想集団などではなく、その本質はむしろ上命下達の行政組織であるというところにこそあります。

それがゆえに後に裁かれるコクド、カネボウを前にしても、長年動かなかったのもまた同じ検察という庁舎でした。

彼らを取り巻く法文をながめてみれば、検察庁法の14条は法務大臣の検察事務に関する指揮監督権を規定しています。

庁法14条を介在させて、法務大臣検事総長へ具体的事件について指揮できる権限を「指揮権」と呼び、大臣が実際にその権限を行使することを「指揮権発動」と呼んでいます。

検察権はそもそも行政権に分類されていますから、内閣責任原理の下では法務大臣の指揮権発動は当然の機能だともいえます。

と同時に検察権は司法権と密接不可分の関係にありますから、検察権が立法権や他の行政権から健全に独立していることもまた、個人の人権から論理構築している憲法体系下では要求されるはずです。

14条が但し書きを用いて、内閣へアクセルとブレーキを同時にかけるような文言になっているのはこのためです。

もし庁法14条の指揮権発動をフックに、どこか超越した場所からの意図が働く捜査があったとしたら、場合によってそれは、いわゆる国策捜査と呼ばれることになるかもしれません。

それは三権分立の建前をかなぐり捨てた、”剥き出しの国家”の姿だとさえいえます。

14条の立法趣旨に鑑みれば、それはバランスを個人の尊厳に向かって倒壊させる危険行為です。

しかしながら視点をいったん国家運営という究極の立場に移してみれば、そうした危険な解釈への要請も完全に否定しきることができなくなります。

切れ者集団、ライブドアと堀江氏についてかえりみれば、巨大な富を自分と仲間達の元に集中的に集めることで、慣習が支配する社会に対して”競争の公平”を求め続けていました。

そしてその請求根拠を、経済社会唯一の共通言語であるところの「富」に求めていたはずです。

しかしながらいつかその正義感は、結果的に社会が総合的に「富」に期待する仕事を、あまりに一面的に規定してしまい、いつか社会価値観への挑戦となってしまったといえそうです。

ライブドアの約10倍規模の粉飾決算を行っていた日興コーディアル証券でさえ、その制裁が単なる課徴金のみで済んでしまっているのは、コーディアルにはそうした社会意識へ挑戦するような言動も思想もなかったからだとさえいえます。

中央銀行による富の総量コントロールが必須である以上、社会に富の一点集中が起これば、逆に広い範囲に富の枯渇が生じることになります。

富の分配について、かつて英国の哲学者、ジョン・スチュアート・ミルはこう看破しています。

「ある人がだれの助けも借りず、個人的に骨折って生産したものでさえ、社会が認めなくては自分のものとして保有することはできない。社会はそれを彼から取り上げることができるだけでなく、その人の保有が妨害されないように社会が報酬を払ってだれかを雇わなければ、別の個人がそれを彼から取り上げることもできるし、実際に、そうしたことが起こるだろう。したがって、富の分配は社会の法と慣習に依存する。社会で優勢を占める人々の意見と心情とが、富の分配を決める規則をつくるのであり、そうした規則は時代により、また国により大いに異なる。」(出典:入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫)

わたしたちの”社会”は、その気になればすべての富を国王に与えようとすることもできますし、反対にその富を用いて巨大な慈善施設を運営しようとすることもできます。

そしてそれを決定するのは、修正され続けるわたしたちの法と慣習でしかないということです。

そこにははじめから摂理のような正しい分配など存在しません。

検察が絶対正義という秤を金輪際持ち得ないのと同様に、社会にはこれからも富を適当と思われるように分かち与える立場の人々と、一定の意志が現れつづけるだけなのが現実です。

既得権益に立ち向かっていった堀江氏の内面には、悪気のない正義感が確かに存在していました。

しかしながら富を一元解釈しすぎた堀江氏を、強制捜査という法の流れで押し流しってしまったその圧力の底流には、「国は運営されなければならない」という至上の命題と、ミルの至言が流れているように思えます。(参照書籍:ライブドアショック・謎と陰謀―元国税調査官が暴く国策捜査の内幕逐条解説検察庁法

 

毎日新聞のふるまいと日刊新聞法という結界

英語版サイトに「低俗」な日本紹介記事を掲載 毎日新聞がおわび(iza)
「閉鎖されたのは、毎日新聞英語版サイト「Mainichi Daily News」のなかの「WaiWai」と題したコーナー。「国内の週刊誌などの報道を引用し、日本の社会や風俗の一端を紹介」するとして、「日本政府は、防衛政策の広報のために小児性愛者向けの少女キャラクターを用い、『オタク』たちをひきつけようとしている」「日本の女子生徒は性的に乱れており、その一因はファストフードの食べすぎ」「高校入試を控えた息子を持つ日本の母親は、勉強前に息子と性的な行為に及ぶ」といった内容の英文記事が掲載されていた。このコーナーは2001年4月に開設され、1997年から同社の特別嘱託社員として勤務する外国人記者が主に執筆していた。」

日刊新聞特例法の第1条をご覧ください。

日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律

第1条(株式の譲渡制限等)

「一定の題号を用い時事に関する事項を掲載する日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社にあつては、定款をもつて、株式の譲受人を、その株式会社の事業に関係のある者に限ることができる。この場合には、株主が株式会社の事業に関係のない者であることとなつたときは、その株式を株式会社の事業に関係のある者に譲渡しなければならない旨をあわせて定めることができる。」

 

(以下参照:大塚将司 新聞の時代錯誤―朽ちる第四権力 東洋経済新報社

独禁法の適用除外や特殊指定とともに、新聞業界を守護する法的鎧として存在するのが日刊新聞特例法です。

それは商法の特例法であり、新聞社に株式の譲渡制限を認め、しかも株主を「新開事業に関わる者」に限定できるようにしています。

日本の商法は、わたしたちが戦争に敗れた後、GHQによる「株式が譲渡を制限されることは認めない」という意向を受けて、株式の完全自由売買を原則としています。

実は新聞業界はその時点までもその株式を限られた人たちの間にしか流通させないことを許されてきていました。

そこでもし戦後の商法改正で譲渡制限が禁止にされると、その結界が破れることになります。

そこで当時、『朝日』『読売』『毎日』『日経』の四社が全国の日刊紙へ呼びかけ、政界への働きかけを始め、特別に新聞業界だけ譲渡制限を残そうと動き出しました。

そしてそれにより生まれたのが、現在の日刊新聞特例法だというわけです。

しかしもともとなぜ新聞社に戦前から社内株式保有制度を認められていたのかといえば、自由な言論を多数の新聞社が行うことを快く思わなかった大政翼賛体制があったからでした。

戦前における新聞社の株式譲渡制限は、報道機関に対する管理システムであったのです。

つまりかつての外部のチェック機能を働きにくくしていた社内株式保有制度という構造は、政府という主が去った後、社内の人間による言論の私物化を導きやすくしています。

そもそも戦前の日本の新聞社も、結局編集権は経営権に勝ることができず、経営者が軍に屈すると新聞という言論が戦争を支持し続け、謝った報道をしつづけてしまった歴史がありました。

たとえ新聞を法的に社内株保有制度で守ったとしても、それは報道の自由を守る構造とはなり得なかったのです。

21世紀を迎え個人発のメディアも多様化、時に有力化し、大新聞が恐竜のように唯一無二な存在だった時代は終わろうとしています。

ただし国会の中を武装した人たちに歩まれないようにするためには、他に世情を知る術をもたない全国津々浦々の人たちの手にも渡る大新聞が、その存在意義を十全に果たさなければなりません。

そのためにも新聞がにいたずらに部数増加、アクセス至上主義に走り、過度な脚色の報道をするような事態は避けなければなりません。

かつて参議院議員羽仁五郎氏は大新聞の存在のさせ方について、「経営権、編集権、読者の真実を知る権利の三つを、最も正しい関係に配置しなければならない」と延べました。

しかしながら現代、手綱はもはやいかようにも新聞社任せであることを、毎日新聞社英文サイト事件はわたしやあなたに教えています。(私見)