集落:生贄のヤギとアザゼルのヤギ

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「私は無実」訴え続け84歳…奥西死刑囚、時間とも戦う
「「判決主文を言い渡すからね」。法廷でこう切り出した高裁の裁判長は、一呼吸置いて「被告人を死刑」と続けた。閉廷後、両手に手錠をかけられ、拘置所に移送された。72年、最高裁で死刑が確定。「やっていない事はやっていないと、言わないかん」と励まし続けた母親は、88年に84歳で亡くなった。死刑の執行を恐れながらの拘置所での生活。これまで処刑や獄死で見送った死刑囚は二ケタを数える。70歳を目前に控えた93年には、死亡した時に私物を届ける先や献体を希望する先などを聞かれ、いよいよと覚悟したという。」(朝日新聞

刑事訴訟法の435条第6項をごらんください。

第四百三十五条 

「再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる。

六  有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認 めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。 」



再審とは有罪の確定判決に対し、その効力をくつがえすものです。

そしてその型には、ファルサ(falsa)とノヴァ(nova)があります。

ファルサとは、確定した判決が事実を認定するのに使用した証拠などが虚偽だったり、偽造などがなされた場合に再審を認める型です。

対してノヴァは、明らかな証拠があらたに発見されたときに再審する型です。

かつて最高裁は再審に対して非常に厳しい態度をとっており、重大事件に再審が開始され無罪判決が言い渡されたのは非常に数が少なく、それは「開かずの門」とまで言われました。

しかし昭50年、再審開始基準について白鳥事件最高裁決定が画期的な判断を示し、それが多くの重大事件を再審開始に導くこととなりました。

わたしたちの刑事訴訟法435条6号は、証拠の新規性と明白性を要求していますが、この点の判断方法に対して白鳥決定はこう示しました。

(1)確定判決の証拠構造を分析し、新証拠がその証拠構造においてどの位置にあり、どのような役割を果たしているのかを確認し、

(2)新証拠が旧証拠の証明力を減殺した場合に、確定判決がした有罪認定にどのような影響を及ぼすのかを新証拠と旧証拠とを総合的に検討して判断する。

この判断方法は、冒頭の名張毒ぶどう酒事件にも踏襲されました。

名張毒ぶどう事件とは、小さな集落の会合で供された葡萄酒に密かに毒が盛られ、たくさんの人が亡くなった事件です。

最決平9・1・28は、白鳥決定を用いて再審をこう否定しました。

(1)原確定判決が被告人Xの犯行だと認定した根拠は(a)犯行の場所と機会に関する状況証拠(b)鑑定(c)自白調書の3証拠群である。

(2)X提出の新証拠は,(b)鑑定の証明力を大幅に減殺した。

したがって,(3)新証拠とその他の全証拠とを総合的に評価した結果「確定判決の有罪認定につき合理的な疑いを生じさせ得るか否か」が問題である。

検討するに(a)犯行の場所・機会も(c)自白調書の任意性・信用性も揺るがない。

したがって新証拠によって(b)鑑定の「証明力が大幅に減殺されたとはいえ、新旧全証拠を総合して検討すると、犯行の機会に関する情況証拠から、申立人(X)が本件犯行を犯したと認めることができ… 確定判決の有罪認定に合理的な疑いを生ずる余地はない」。

いかがでしょうか。

この論の進め方は、「確定判決の証拠構造が揺らぐか」という視点に固執しているようにも読めます。

そしてそのような姿勢のことを、証拠構造論と呼んでいます。

しかしながらわたしたちが、無実かもしれないと見守る裁判のありかたとして(そして全ての裁判にはそうした視点が不可欠ですが)、テクニック論よりも、是非有罪か無罪かをテーマに証拠の明白性判断を論じてほしいと思うのが自然かもしれません。

その意味である証拠を固定的に位置づけてしまう証拠構造論は、人権の最後の砦たる裁判所を、裁判のための裁判の場所へと収斂させてしていってしまうのではと危惧させます。(私見)

名張毒ぶどう事件の被告人、奥西勝さんは集会前日に葡萄酒に毒を入れたのだとされています。

しかしながら「魔の時間―六つの冤罪事件 (1976年) 」によればその寄り合い、「三奈の会」に葡萄酒がでるかどうかは、当時の会長、奥西楢雄さんの判断一つに任されており、誰も知りませんでした。

事実会長が葡萄酒を出すことを決めたのは当日朝だったといいます。

また警察で接待を受けた集落の某有力者にも奥さんと愛人との三角関係があり、惨劇のあった日は奥さんと大喧嘩をしたといわれ、その奥さんは何故か盛装して会に出席、毒ぶどう酒を飲んで死亡しています。

一審判決では、この家でも毒を入れるチャンスがあったことを、かなりはっきりと指摘しており、事件をめぐるナゾは、まだ十分に解明されたとはいえません。

ときにえん罪を突き進める要素は、法廷の遠くからも押し寄せるため、司法というシステムにはそれらを判じ上げる尋常成らざる集中力が必要であり、「再審」という装置こそは誤って捕らえられ続ける人を救済する最後の非常手段なのです。

よもや生け贄のヤギを執拗に差し出すことでもたらした贖罪が、集落の安寧などであってはなりません。



(参照資料)