個性化:答えのない旅

無名の日本人画家が主演でカンヌデビュー(日刊スポーツ)
「無名の日本人主演俳優が静かにカンヌデビューを飾った。監督週間部門に招待された仏映画「ムッシュ・モリモト」の森本健一さん(68)だ。本職は画家で、主演どころか演技自体が初めてだったため、全く話題にならなかった。定年退職後の00年に画家を目指して渡仏。自由気ままに老後を楽しむ姿が、そのまま映画の題材になった。」

憲法の21条をご覧下さい。

第21条〔集会・結社・表現の自由,検閲の禁止,通信の秘密〕

「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。

 検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。」 

わたしやあなたの心のなかにある考え方や信仰(あるいは無信仰)は、外に表明して誰かに伝達してこそはじめてその社会的効用を発揮できます。

その意味で「表現の自由」が法的に保証されていることは、人という社会的な動物にとってとても重要な前提装置です。

表現の自由」の体内では、表現が人格を発展させるという個人的な価値と、討論により政治に間接関与するという社会的な価値が胎動しています。

そして前者のことを、一般的に「自己実現の価値」などと呼んでいます。(後者は自己統治の価値と呼ばれます)

それらの内在価値が、表現の自由憲法という特殊な法律の中でも優越的な地位に据えるべきと解釈させているのです。

 
かつてユング自己実現の道を、個性化(individuation)の過程といいました。

彼によればそれはこういうことです。


「意識と無意識は、どれか一方が他方に抑圧されたり破壊されたりしていては、ひとつの全体を形づくれない。

両者を平等の権利をもって公平に戦わせるならば、双方共満足するに違いない。

両者は生命の両面である。

意識をして、その合理性を守り自己防衛を行わしめ、無意識の生命をして、それ自身の道をゆかしめる公平な機会を受けしめよう。

……それは、古くからあるハンマーと鉄床との間の技である。

それらの間で鍛えられた鉄は、遂に壊れることのない全体、すなわち個人となるであろう。」


わたしやあなたは生きるという過程のなかでこれまで困難に出遭い、難しい意志決定を迫られてきました。

そしてそれにどう対処するかについて、一般法則など存在していません。

たとえばある人は「老い」という季節を迎えて、そこに敢えて挑戦しますが、ある人はその季節をなるべく事なきように生きます。

それら判断の吉凶は、結局誰にもわかりません。

そして一般化を許さぬことにこそ人生の特徴があり、それ故に生きるとは自らを個性化することなのだと解釈されうるのです。

ニュースによれば森本健一さんという68歳になられる方が、公務員を定年退職後、パリに単身渡って絵画の勉強をされている様子が映画になったといいます。

そしてわたしやあなたは、この種のニュースを聞くたびにある種の焦燥感を覚えるのが常です。

「果たして自分は、これまで十分自己を個性化する判断をしてこれたのだろうか」と。

しかしながら人は、常にその時点で自分にできるベストの選択をして生きている、いわばささやかな存在です。

また個性化と自己実現も必ずしも同義ではありません。

個性化はあくまで生きるという長い自己実現の旅の一場面であり、つまりはわたしやあなたにも生きている限り次々個性化の場面が用意されるはずなのです。(参照:河合隼雄 昔話の深層 福音館書店