Imaginary Domain:やわらかい場所

わいせつ画像で口論 夫が妻の首絞め、死亡(日テレ)
「調べによると、川上容疑者は6日午後9時から10時ごろまでに、自宅マンションで、携帯電話に保存していたわいせつな画像をめぐって妻・和子さん(28)と口論になり、両手で和子さんの首を絞めた疑いが持たれている。」

憲法の13条をごらんください。

第13条

「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」 

プライバシーという権利には、現在の処”純然たる私生活・私事に属する事項である”というとてもおおざっぱな定義だけが与えられています。

わたしやあなたが他人に煩わされずに幸福を追求する権利は憲法13条が保障しようとする権利であり、それは人格権の1つだとされています。

しかしてプライバシーというものの核心がなんであるのかは、いまだはっきりとした答えがでていません。

ところで法哲学者、ドゥルシラ・コーネルは、”イマジナリーな領域への権利”という議論を提唱しています。

わたしたちは乳児の頃、大人の話す言葉や振る舞いをもとに、自己イメージを徐々に重ねていきますが、その心的な空間のことを”イマジナリーな領域”と彼女は定義します。

わたしたちはその領域のなかで他者と接し、アイデンティティを徐々に獲得していくというわけです。

そこは、社会的な役割や性別が負わされている建前を放棄して、より自分らしい自分のカタチを追及するための心理的な小部屋です。

”イマジナリーな領域”という理念の核心には、自己を性化された存在(sexed being)として感じる人格として創造する自由があるといいます。

もっとも彼女が”イマジナリーな領域”という概念を用いて指摘するのは、野放図な性のイメージが街にあふれることで女性達がもつそれが反復汚染され、やがて自己イメージを貶めるという段階です。[参照:セクシュアリティと法憲法解釈とフェミニズムの視点 田代亜紀 東北大学出版会]

しかしその、社会的なジャッジや公明正大な建前からもっとも遠い場所で、性化された自分自身の心象を発達させようという心の小部屋という概念は、プライバシー権というものの核心としてのふさわしさを感じます。

誰かに褒められるためではなく、あなたにとってのセクシャリティとは何なのか、またあなたとは誰なのかを安心して究明できる場所が心の中にも許されなければ、わたしたちはどうそれを無視しながら期待される社会的な役割を果たせるものでしょう。

もしプライバシー権の核心を見つけるための議論が、その最後に性を見つけたならば、それは上質な議論だったと呼ばれるべきです。

時にわたしたちは愛と性が極個人的なものであることを許さず、誰かの小部屋をこじ開けて”正常なセクシャリティ”を押しつけたくなります。

だからといって、それが人に手をかけることの理由になるはずもありません。

しかしその領域を法がたくましく保護することは、社会をひとつ上の次元に向かわせる装置になりうるかもしれません。

 

 

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