せめてアポリアーを知れ

B型肝炎感染者から腎移植 肝障害発症し死亡(読売新聞)
「万波誠医師は29日、読売新聞の取材に応じた。一問一答は次の通り。――ドナーがB型肝炎ウイルスの陽性だったことは知っていたのか「移植前の検査で感染性が高い抗原は検出されず、肝炎は沈静化していた。相談した内科医にも『感染の恐れはない』と言われた。感染力のある腎臓なら移植するはずがない」――ドナーがB型肝炎ウイルスの陽性であることを男性に説明したのか「それは覚えていない」」

ヘルシンキ宣言の22条をご覧下さい。

ヘルシンキ宣言 ヒトを対象とする医学研究の倫理原則

「22 ヒトを対象とする研究はすべて、それぞれの被験予定者に対して、目的、方法、資金源、起こり得る利害の衝突、研究者の関連組織との関わり、研究に参加することにより期待される利益及び起こり得る危険並びに必然的に伴う不快な状態について十分な説明がなされなければならない。対象者はいつでも報復なしに、この研究への参加を取りやめ、または参加の同意を撤回する権利を有することを知らされなければならない。(以下略)」 

1947年、第二次世界大戦下におけるナチスドイツの人体実験に関してニュールンベルク国際法廷が開かれました。

そこでは人類が医学研究の名においておぞましい人体実験を行ってしまった事実への反省と、被験者の人権尊重を趣旨として、ニュールンベルク綱領が示されました。

そしてそれを基本に、世界医師会1964年のヘルシンキ総会は、人体実験法に関する倫理綱領であるヘルシンキ宣言を採択しました。

ヘルシンキ宣言の1975年改訂では、インフォームド・コンセント、すなわち”内容がはっきり知らされた上で、被験者や患者が研究や治療へ同意する”という概念を提唱し、のちにインフォームド・コンセント(以下IC)概念が世界の医療界に普及するきっかけをつくりました。(生命倫理事典 太陽出版)

臨床研究であれ、非臨床的医生物学的研究であれ、結果的に患者が医師に身を任せる前には、十分にICが尽くされることが、両者にとって極めて重要になっています。

それは医療知識とその処理判断を専占することで、医師が患者の上位に立ち、それにより数多の責任回避が意識的、無意識的に図られてきたこれまでの構図を、お互いのため発展的に解放しようとするものです。

かつてヒポクラテスが「礼儀について」のなかで語っていた「患者の前ではたいていのことを隠さなければならない」という教えが初めて破られたのは、1972年、米国病院協会による患者の権利章典によってだといいます。

ただし、患者さんにどういう説明を行い、どういう臓器を生体移植するのかなどという権力行使を自己操縦するための、いわゆる”医療倫理違反”と、医学発展のために欠かせない”臨床研究”の境界は、いまだ法的責任を伴った明確な定義はなされていません。

ところで職業人の倫理、いわば”徳”とは、どのようなものをいうのでしょう。

たとえばプラトンの著書「メノン」では、貴族の青年メノンがソクラテスに”徳とは何か”を問い続けます。

その中でソクラテスが”僕も徳とは何であるかということがわからないから、いっしょに探求するつもりだ”というと、「いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探求するおつもりですか?」と青年は問いただします。

ソクラテスの答えは、「それは想起(アナムネーシス)することによって、既に知っていることに思い至るのである」というものであり、「徳それ自体はそもそも何であるかという問を手がけてこそ、はじめてわれわれは知ることができる」のだとしています。(メノン プラトン 岩波書店

目を凝らしてその本質を見ようとした人にだけ、徳は一つしかない真の形を見せようというのです。

いろいろな職業のわたしたちがちょうどそうであるように、お医者さんも手術台を前にしてその徳は必ずしも一様でないかもしれません。

けれどわたしやあなたの、そしてその家族の命を扱うお医者さんが備えた徳だけは、自己流のそれではあって欲しくないものです。

 

 

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