米バージニア工科大で銃乱射、33人死亡 米史上最悪(CNN)
「目撃者の同大1年生によると、ノリス・ホールでのドイツ語の授業の最中、男が「誰かを探しているような素振り」で教室をのぞき込み、発砲を開始した。学生らは入口を塞ごうとしたが、ボーイスカウト風の服を着用した男は教室内に入った。血が散乱するなか、ショックを受けたとみられる学生らは気を失った。現場を脱出したのはわずか4人で、残る20人近くは死亡もしくは負傷した。」
刑法の199条をごらんください。
第199条〔殺人〕 「人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」 |
わたしやあなたにとって、自分の思うとおりにはならない”他者”という存在は、時に随分悩ましいものです。
場合によっては憎い他者を、世界から消してしまいたいと考えてしまうのも、聖人以外誰もが夢想する極ありふれた感情だといえるでしょう。
ただしわたしやあなたがたとえ世界の全員が気に入らなくとも、武器を手にとって彼らを殺めれば日本国刑法の199条の罰が待っていますし、その倫理は他国でも同じです。
ところで刑法199条は、その罰を受け入れる気があれば、たとえば最初から自殺して責任をとるつもりなら誰も彼も殺してもよいのだと逆読みをすることは許されるでしょうか?
たとえばエマニュエル・レヴィナスの論文集、「レヴィナス・コレクション」には、1951年の論文、「存在論は根源的か」が収録されており、そこには以下のような記述を見ることができます。
「他者のうちにあって、存在一般にもとづいて私に到来する要素はどれもみな、私による了解と所有に供される。
他者の歴史、その環境、その習慣に基づいて、私は他者を了解する。
しかし、他者のうちで了解からこぼれ落ちるもの、それこそが他者であり存在者なのだ。
私が存在者を部分的に否定しうるのは、存在一般にもとづいて存在者を把持し、それによって存在者を所有する場合に限られる。
他者とは、その否定が全面的否定、つまり殺人としてしかありえないような唯一の存在者である。
他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである。」
レヴィナスはあたかも、人が誰かに固有の殺意を抱く前に、すでに殺意の発動やそのための装置の開発は、了解しきれない存在者に向けて構造上予告されているのだといっているかのようです。(私的解釈)
すくなくとも個人間レベルでは殺戮で存在の全否定をされることなどないよう、歴史が刑法へ投射した倫理が199条の正体なのかもしれません。
わたしたちは存在物以前の存在(イリヤ)という概念を理解できる唯一の生物です。
それゆえに、たとえ死刑を受け入れる気があらかじめあろうとも、銃を手に取ることは生物の特性上許されているとはいえないのです。