村八分という法の隠し子

「村八分」訴訟、地区長らに賠償命じる判決 新潟の集落(朝日新聞)
「判決によると、原告の1人が04年4月、集落主催のイワナつかみ取り大会をめぐって「準備と後片付けでお盆をゆっくり過ごせない」「被告の1人がイワナ購入にあたって村の補助金を水増し請求している」との理由を挙げて運営から離脱。被告側は「集落の決定に従わなければ村八分だ」などと迫ったが、最終的に計15人が脱退した。これを機に、被告らは同年6月から集落内の山菜・キノコの採取や集落所有物の使用を禁止。ゴミ収集箱に鍵をかけて見張り、役場などの回覧板も回さなかった。 」

民法の709条をご覧下さい。

第709条〔不法行為

「故意又は過失に因りて他人の権利を侵害したる者は之に因りて生じたる損害を賠償する責に任ず」 

法律を政治の手から切り離し、法は法、政府は政府と別の話にすることが、「法の支配」の肝の部分です。

なぜならそうした定義さえしておけば、わたしたちが法を盾に時の為政者と争うことが真っ当な行為になるからです。

これが力の論理にわたしたちの真の価値を押し潰させない、「法の支配」のとても大事な機能です。(私見)

ただし村落など閉鎖的コミュニティでは、この国家法に独立地位を与えておくという道理が理屈が通俗として影響できてこなかった空間もあります。

その典型露呈が村八分です。

村八分とは、村が特定の人や家族を共同生活から排斥してしまう強烈な私罰をいい、その別名を共同絶交ともいいます。

そうした事態が一旦裁判所に持ち込まれれば、国家法は私罰を認めるわけにはいきません。

事実過去の判例においても、村八分という状態は刑法上は222条の脅迫罪(昭和9年3月5日)、民法上は709条の不法行為(大正10年6月28日)になると結論づけられています。

しかしわたしたちの暮らす国では古くから、裁判所にコミュニティの問題を持ち込む前に、コミュニティ自身で問題解決を図ろうという意図が働いてきました。

そこには殿様が作った法律が支配する白州の裁きに対する、長年の不満があったかもしれません。

村の掟は国の掟に干渉されないよう表には出されず、その分だけ時間をかけて構成員に抗いがたい頑強なものになっていきました。

同じように為政者による法に不満があった欧州で個人のために法の支配が生まれ、わたしたちの国では村の掟が強固化していったのは、個人の前に「場所」がある、アジア独特の思考順序があったかもしれません。(私見)

法の支配が日本国憲法に現れた現在でも、わたしたちは安全のため事前にコミュニティ全体の空気を読んで自分を合意の方向へ織り込んで生きる処世術を完全には手放せていません。

そしてその副作用のように、役所がそうした意思決定をしたことよる薬害や耐震強度偽装などのニュースも、毎日見聞きしているのです。(私見)

 

 

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