区別はない、閾値だけがある

<福岡いじめ自殺>同級生3人を書類送検へ ふざけ逸脱(毎日新聞)
「福岡県筑前町立三輪中2年の森啓祐君(当時13歳)が昨年10月、いじめを苦に自殺した問題で、福岡県警は19日、自殺直前に森君を校内のトイレで取り囲んでズボンを脱がそうとしたとして、同級生5人のうち当時14歳の3人を暴力行為法違反(集団暴行)容疑で書類送検し、同13歳の2人を同じ非行事実で児童相談所に通告する。一連のいじめ行為を精査した結果、トイレでの行為は日常の「ふざけ合う行為」から逸脱した暴行に当たると判断したとみられる。」

暴力行為法の第1条をご覧ください。

暴力行為等処罰に関する法律1条

「団体若は多衆の威力を示し、団体若は多衆を仮装して威力を示し又は兇器を示し若は数人共同して刑法(明治40法律第45号)第208条、第222条又は第261条の罪を犯したる者は3年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処す」 

最高裁判例に、数人が数人に暴行を働いた件についての昭和53年2月16日判例があります。

それによれば、暴力行為法と刑法の関係について、「数人共同してニ人以上に対しそれぞれ暴行を加え、一部の者に傷害を負わせた場合には、傷害を受けた者の数だけの傷害罪と、暴行を受けるにとどまった者の数だけの暴力行為等処罰二関スル法律第1条の罪が成立し、以上は併合罪として処断すべきである」と判断しています。

すこしややこしいのですが、暴行を受けただけの人がいた場合、その数だけの暴力行為法第1条が成立し、刑法における暴行罪は別個の評価をしないという結論です。

つまり暴力行為法は基本的に社会的法益を漠然と保護しようとした法ではなく、各個人的法益を保護しようとしているのだという解釈が成立します。

また複数人の被害者中、暴行を受けただけの人がいた場合に暴力行為法1条のみを成立させて、刑法における暴行罪の別個評価をしていない点からは、暴力行為法が刑法という一般法に先立ち適用させる特別法なのだという結論も導けます。

それは集団が暴行をはじめた時の危険性、法益侵害の程度、範囲の大きさから刑法に先立って用意された特別加重犯なのです。

1970年代の後半にマーク・グラノヴェターは、誰にも集団心理の連鎖に加わる「閾値」があると発想しています。

ここでいう閾値とは、「問題となっている行動をする個人にとって、考えられる利益が考えられる犠牲を上回る」ポイントのことです。

閾値のレベルはその人の性格によって、また罰への恐怖をどの程度深刻に受け止めているかによっても変わってきますが、ひとつのクラスにいる各生徒の閾値がどのような配置になっているのかで、集団心理の連鎖はかなり違った形で生成されるはずです。

(参照:マークブキャナン 複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線

程度と速度の差さえあれ、優勢な勢力に加わって、反撃のできない勢力へ攻撃を加えるという状況は、わたしにもあなたにも伝播しうるヒステリーなのです。

その意味でいわんや子供に徒党を組ませないのは、不可能なのだといえるかもしれません。

今回福岡県警があえて彼らを書類送検するのも、回避しきれない人の性向を前提に、それでも存在させている集団暴行罪という特別法を提示することの効果に期待したものかもしれません。

 

 

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