証を捨てよ神を食らおう

強姦実刑男性、無罪でした~富山県警(スポニチ)
「無実だった男性については、採取した足跡が一致しないことを認識しながら逮捕し、アリバイが成立する可能性があることも見落としていた。「裏付け捜査が不十分だった」と冤(えん)罪を認めたが、肝心の男性は刑務所から出て行方が分かっていない。県警の小林勉刑事部長は会見で「聞き込みで男性が浮上し、被害者の面通しなどで容疑者と断定した」などと、お粗末な捜査を振り返った。当時、捜査段階で現場から採取した足跡が男性の靴のサイズより大きかった事実を認識していたことについて「足跡については当時は疑問に思わなかった」。電話の通話記録からアリバイが成立していた点に関しては、山崎次平捜査1課長が「捜査を詰め切れなかった」とし、苦しい釈明に終始した。」「男性は懲役3年の実刑判決を受け、05年1月に仮出所。服役中に父が死亡し、葬儀には参列できなかったという。」

刑事訴訟法の317条をご覧ください。

第317条〔証拠裁判主義〕

「事実の認定は、証拠による。」

かつてヨーロッパでは焼けた鉄を容疑者に握らせ、その火膨れの具合によって罪人かどうかを判断した時代がありました。

または容疑者を水に投げ込み、彼が上手く浮かんでくるか、あるいはそのまま沈んでしまうかによって、罪人と決めたりしていました。

日本でもかつては煮えたぎる釜の熱湯に容疑者の手を突っ込ませ、その火膨れの具合で罪人かどうかを判断した時代が事実存在していました。

やがて多数の裁判を傍観してきたわたしたちは、さすがに想像上の存在に罪の判断を任せることに疑問を拭うことができなくなり、民衆の間のルールだけで裁判を完了させ、神に問うことを自然やめていきました。

さらにわたしたちは一人の個人に、「罰」という圧倒的権力を行使するために、「司法」という機構をはらんだ「国家」という概念を自然発生的に手に入れます。

そこでは神の判断と引き換えに、罪を断じるために用いられるのは本人も含めて誰の目からも明らかに罪を犯したことが証明できる”証拠”でなければならないと考えられることになったのです。

このことを日本の刑事訴訟法がうたっているのが317条、証拠裁判主義です。

もし存在する証拠が罪の行為者としてのものと合致しなければ、即座に彼を解き放つこと自体が、私たちが神をむさぼることをやめられたことのあかしとなります。

あやまった断罪は取り返しのつかない事態を疑われた人の人生にもたらします。

しかしそれ以上に、もし足跡が違っていようがアリバイが存在していようが自白だけで彼に罪を償わせてしまうなら、それはわたしたちがいまだ観念の奴隷でしかないことをそのたびに裏書してしまうものです。

  

 

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