刑事は早朝、玄関に立つ

倉庫からジーンズ31本窃盗「犯罪証明ない」と無罪 (zakzak)

「山本裁判官は判決理由で、衣料品店の在庫管理がずさんで被害品が特定できないとし「男性がリサイクル店に売ったジーンズと盗品が一致する」との検察側の主張には裏付けがないと指摘。「ジーンズを見知らぬ男から買い、売却したとする男性の弁解は不合理だが、直ちに虚偽とみることはできない」と述べた。」

刑事訴訟法の333条第1項をご覧下さい。

第333条〔刑の言渡し、執行猶予の言渡し〕

「被告事件について犯罪の証明があったときは、第334条の場合を除いては、判決で刑の言渡をしなければならない。」(以下略) 

刑事訴訟法333条により、刑事裁判が誰かの行為を有罪だと判決するためには、起訴状記載の公訴事実について「犯罪の証明があった」ことが必要だということになっています。

ここで「犯罪の証明があった」とは、証拠に基づいて公訴事実の存在が肯定され、犯罪の成立が認められたことをいいます。

その証明の程度は、「合理的な疑いを超える」高度なものでなければなりません。

そして、その証明は、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従ってなされることになっています。

よって犯罪の証明に関して「合理的疑いが残る」と裁判所が判断したときには、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い、無罪判決が下されます。

なぜこのように、わたしやあなたが憎む「悪い人」を裁くはずの裁判は、まどろっこしい仕組みになっているのでしょうか?

「疑わしきは被告人の利益に」とは、推定無罪という原則が導く具体的規範のことでいう原則は憲法31条や、刑事訴訟法336条が根拠となっています。

推定無罪の原則とは、誰もが裁判所の有罪判決まで、罪を犯していない人として扱われなければならないという原則のことをいいます。

それは史上、フランス人権宣言によって初めて宣言されています。

その時代、フランスの国家権力は気に入らない人間をどんどん悪名高きバスティーユ監獄に放り込んでいました。

彼らは監獄に入れられる正当な理由がないばかりでなく、いつ出てこられるかのあてさえもなく拷問や虐待を受けていました。

この事態がフランス革命を生んだことはご存じの通りであり、その証左に市民たちは大挙してまずそのバスティーユを襲撃しています。

当時の状況を憂いていたベッカリーアは、『犯罪と刑罰』という著作のなかで挙証責任を国家側に負わせる提言をはじめてなしています。

わたしやあなたが一旦国家に罪を疑われたら、自分でその無罪を証明することはとても難しかったからです。

それ以降、推定無罪の原則は、いつの時代も権力の暴走をチェックするために司法をスキャンしています。

検察による有罪の証明がやたらと大変なのは、そうした機能を期待されているからです。

そしてわたしやあなたは、その原則が時に真の犯人を取り逃がす可能性さえ織り込み済みでその動作を認めています。

それはたとえば、あなたのお母さんが唐突に盗人の罪を着せられ、無罪の証明に途方に暮れるような社会に比べれば、よほどマシなのです。