司法権の拡散とソクラテスの自殺

ブログで裁判 韓国の二つのネット裁判 (MSNnews)
「ところで、その韓国では、インターネット裁判という言葉は、別の意味でも使われている。司法機関が手続きにのっとって行う裁判ではなく、市民が掲示板の上で、けしからぬ行いを裁いてしまう“サイバー人民裁判”だ。有名なのは、2005年夏、地下鉄のなかで連れていたペットの犬が落とした排泄物を始末せずに、その場を去ってしまった若い女性の例だ。この時、乗り合わせていた乗客が、現場と女性の写真をネット上に掲載したことから、女性への非難、罵倒がわきおこった。女性は「犬糞女」と呼ばれ、掲示板には数万件の抗議の書き込みがあったという。さらに、人民の追及はとどまるところを知らず、女性が通う学校探しが行われ、間違えられた大学のサーバーがダウンするという騒ぎまであった。こうしたインターネットの人民裁判は、ほかにいくつも起こっている。恋人に捨てられて自殺した女性の相手とされた男性の実名や電話番号が公開され、激しい抗議で仕事をやめるところまで追い込まれた例もあったという。こういう形でネット上で「さらし者」にされた人たちには、弁明の機会も与えられない。ネチズンたちは、正義感をもって一方的に悪者を非難し、社会的に葬り去ることになってしまう。」

憲法の76条2項をご覧下さい。

第76条〔特別裁判所の禁止〕

「2 特別裁判所は,これを設置することができない。行政機関は,終審として裁判を行ふことができない。」

記事中で表現されている人民裁判とは、手続的ブレーキなしでもっぱら大衆の鬱積した感情にカタルシスを与えることを目的に行われる公開裁判というほどの意味です。(私的定義)

今から約2400年前、やはり500人の陪審員による人民裁判で吊し上げられ、死刑を言い渡された老人がいました。

名前はソクラテス

その訴因の第一は若者を堕落させていること、訴因の第二は不敬神の罪でした。

ソクラテスアテナイ中のあらゆる覚者を尋ね歩き、質問攻めにして、実はソクラテス自身を含め、誰もなにも究極には説明できるものをもたないのだという事実を暴露し続けていました。

そしてそのことで社会からの反発を受けた彼は500人の陪審員が待つ人民裁判の法廷に呼ばれたのです。

当時アテナイの市民は各自が司法権を持っていました。

司法権とは、法を適用して、宣言することで具体的争訟を解決する国家作用をいい、ザックリいえば皆が人を公式に裁く権利をもっていたことになります。

当時のアテナイ市民には30歳以上なら誰でも陪審員に志願してなることができました。

さらにアテナイの裁判制度には検察制度がなかったため、訴えたいと思う人は誰でも法廷に直接告訴することができました。

検察もいないかわりに弁護士もいなかったその法廷で原告と被告の弁論が終わると、陪審員は合議などせず、直ちに有罪か無罪かを投票しました。

それだけではなく、ソクラテスのような量刑が定められていない事件では刑の程度も決める裁判官にもなりました。

さらに控訴や上告のような救済手段はなく、どのような案件も1日で結審しました。

(参照:ソクラテスはなぜ死んだのか 加来彰俊 岩波書店

但し有名なこのソクラテス裁判、彼は自ら陪審員の怒りを買うような発言を繰り返し、確信的に死刑の判決を獲得した後、その哲学のかたちを置き土産に、自ら毒を飲んで絶命しています。

(そしてそのことが、”最初の哲学者”という呼び名に実質的理由を与えています)

韓国でインターネットを利用した一種の人民裁判が流行しているというニュースは、わたしたちの国の憲法76条1項が司法権をすべて裁判所内に密閉されていることの意味を再認識させるものです。

しかも76条の2項は戦前の軍法会議や皇室裁判所といった一見裁判所的にみえる場所をも設置を禁止し、”個人の尊厳”の意味を法廷の種類によって変えないという宣言をしています。(私的解釈)

すなわちもし司法権が紀元前のアテナイの司法制度のように、市民各自に直接与えられていたとすれば、裁判はいつも集団の被告に対する鬱積した感情の解消を第一の目的に運営されるに違いないからです。

(もちろんそれは司法的な論理で覆い隠されます)

手続的ブレーキがなければ、誤って捉えられた人も陪審員を満足させるため景気よく罰せられていくことになります。

わたしもあなたも自分とあからさまに違う属性を他人の中に見いだすと、ある種の生存本能によってそれを排斥したいという感情をうっすらと抱ずにはいられない存在だからです。(私見)

特別裁判所の禁止は三権分立の純化という前に、”司法権”を気密ビンの中に入れておくことの重要性を、司法という宗教のために考慮しているのだともいえます(極私見)。


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