竜助さん死去:「アホ、ボケ」紳助号泣(毎日新聞)
「オレと出会わなければ売れることもなく、普通の人として生き急ぐこともなかったんじゃないか。去年、漫才をやっておけばよかった」と唇をかみしめた。」
憲法の21条をご覧下さい。
第21条〔集会・結社・表現の自由,検閲の禁止,通信の秘密〕 「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。(以下略)」 |
憲法の21条は、わたしやあなたに表現することを国家からむやみに妨害されないことを保障しています。
内心における思想や信仰は、外部に表明され、他者に伝達されてこそ社会的効用を発揮するという意味で、表現の自由はとりわけ重要で在ることは誰にでもわかります。
表現の自由を支える価値は二つあり、これらによって表現の自由の優越的地位が導き出されるのだと学説上いわれています。
そのひとつが個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値、いわゆる「自己実現の価値」。
いまひとつが言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値、いわゆる「自己統治の価値」です。
「自己統治の価値」の方は、話が具体的でなにをどうすればいいのかわかりやすいのですが、「自己実現の価値」のほうはどうにも観念自体が抽象的です。
憲法学者の芦部信喜によれば、それは「個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値」なのだとか。(参照:憲法 芦部信喜 岩波書店)
A.H. マズローはその欲求段階説で自己実現のことを、「自分にしかできない固有の生き方にたどり着くこと」なのだと説明しています。
個人的には、表現の自由にいう「自己実現の価値」とは、「生まれてきた意義というものが、目に見える形で自分にも確かめられる人生」なのだと、つたなく理解しています。
もちろん自分にとって手触りでそれが確認できなくとも、生まれてきた意義というものは誰にでもあるはずだと信じたいものですし、事実そういう面も必ずあります。
(名匠フランク・キャプラが万人に語りかけた「素晴らしき哉、人生」を思い出してください)
しかしバレンタインにチョコを送ればホワイトデーにお返しが欲しくなるように、人間とはいつも感触を確かめたい動物です。
スタートを同じくした人間が一方が成功者となってしまい、一方が少なくとも外形上は取り残されてしまった時の人間のあせりというものは、きれいごとを別として、齢を重ねるほどよく理解できるのかもしれません。
Wikipediaによれば竜助さんがもともとスポットライトを浴びたのは花月劇場の進行役をしていた竜助さんに紳助さんが声をかけたのが始まりなのだとか。
二人の乱暴な口調の漫才はお茶の間から批判を浴びながらも、新しい笑いの方法論を確かに築き上げました。
解散後の竜助さんは、自分も他人の自己実現の触媒ではなく、才能という種火をもっているのだということを他ならぬ自分自身の為に証明したかったはずですし、実際いろいろなことに挑んでいらしたようです。
成功した元同僚に追いつくほどの選ばれた人間になれなければ、「自己」が「実現」したとはいえないのだとしたら、憲法21条「表現の自由」が誘う「自己実現」とは非常に酷な道だということになります。
なぜならそこに至るには、才能や幸運、そしてそもそもそれら幸運を受け入れるに自分はふさわしいと感じる高い自己価値観を備えていることが必須になるからです。
そうすると、自己実現のために憲法が用意した「表現の自由」とは、もしわたしたちがそれを望むならば、そこへの道は邪魔だてされないように開かれているという「状態」が第一義的に大切なのではないかと考えられます。
かならずしも皆が皆、勲章を胸につけている必要はないはずですし、勲章などつけていない人からの一言だけで誰かが救われるということもあるはずだからです。
あまりに大きな星の引力に自身の軌道を失った衛星のように、竜助さんはその旅を足早に終えられました。
多数のメディアにより大きくニュースで扱われていることは、竜助さんの残した軌跡が誰の胸にも一抹の影響を与えていることを示しています。
竜助さんの旅の終わりには、おそらく低かったであろうその自己評価を超えて、世間からたくさんの「表現の自由」による記事が手向けられています。