認諾を選択した加害者と、私的自治の足場

長崎の男児誘拐殺人、加害者側が賠償請求を認諾(讀賣新聞)
長崎市で2003年7月に起きた男児誘拐殺人事件で、被害者の種元駿(しゅん)ちゃん(当時4歳)の遺族6人が、加害少年(15)とその両親の計3人に損害賠償を求める訴訟を長崎地裁(田川直之裁判長)に起こし、被告側は3日、争わない意思を示して請求を認諾、訴訟は終了した。認諾は確定判決と同じ効力を持つ。額は原告の意向で明らかにされていない。原告側弁護士によると、提訴は昨年12月20日。3日は原告側弁護士3人と加害者の両親が出席し、両親は、加害少年本人の責任能力と親の監督義務違反があったなどとする原告側の主張を認めた。」

民事訴訟法の267条をご覧下さい。

第267条(和解調書等の効力)

「和解又は請求の放棄若しくは認諾を調書に記載したときは,その記載は,確定判決と同一の効力を有する。」 

認諾とは、民事訴訟において被告が原告の請求についてその理由があることを自認して、訴訟手続を終了させようとする行為のことです。

被告が原告の言い分・要求を認める事を意味しますので、その時点で訴訟手続は終局判決を待たずに終了します。

民事訴訟は自分達の社会を形作るためのひとつの解決方法ですので、そもそも訴訟は当事者の申立てによらなければ開始されず,裁判所は申立ての範囲内で,しかも当事者が訴訟による解決を求めている限りにおいてしか,裁判を行うことができません。

また手続の終了については、訴えの取下げ・控訴の取下げ・上告の取下げ、請求の放棄・認諾及び和解などができるように設計されています(参照:法律学小辞典 有斐閣)。

このように民事訴訟の各所には、当事者が訴訟に能動的に関わっていく場面が設けられていますが、これは社会形成をできるだけ国家の権力に頼らずなしとげようとする私的自治の原則が裁判所において表出する場面です。

私たちの社会は皆が各人の意思により、自己責任で経済活動を行うという建前をとっているため、各人の権利・義務の所在が確認しやすくなっており、それがより自律的に社会が発展するための足場になっています。

共産国家による統制経済が国民の権利・義務を全体で総有してしまったため機能不全に陥ったことからもわかるように、私たちひとりひとりの権利義務の所在を各人の意思のもとに置いてはっきりさせておくという私的自治の原則は、各人の権利の獲得と義務の意義付けの彫りをより深くし自立を促します。

民事訴訟に認諾という訴訟終了装置が置かれているのも、被告が責任を自ら認めその穴埋めをすると宣言することは、私的自治がそのホメオスタシスを回復した一場面だからだともいえるかもしれません(私見)。

幼児を殺めてしまった少年とその両親は、請求の認諾を裁判所に宣言して罪の償いを争いませんでした。

失われてしまった小さな命は決して戻ってきませんが、加害者側が認諾を選択したことは、わたしやあなたが暮らす社会がその自律性を補強するためには、決して無駄な選択ではなかったといえます。