子供という二度とない季節

「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か(Yahoo)
文化庁メディア芸術祭賞を受賞した漫画「毎日かあさん」を巡り、作者の漫画家西原(さいばら)理恵子さん(40)と東京・武蔵野市の間で論争が起きている。西原さんの長男(8)が通う同市立小学校が、西原さんに「学校を作品の舞台にしないでほしい」と申し入れたためだ。問題となったのは、授業参観の場面。主人公の母親が、落ち着きのないわが子を含む児童5人を「クラスの五大バカ」と表現し、ユーモアを交えつつ、子どもの成長を見守る内容だ。」

民法の710条をご覧下さい。

第710条〔非財産的損害の賠償〕

「他人の身体,自由又は名誉を害したる場合と財産権を害したる場合とを問はず前条の規定に依りて損害賠償の責に任ずる者は財産以外の損害に対しても其賠償を為すことを要す」 

本騒動における対立利益の一方は、もちろん表現の自由です。

憲法21条が「一切の表現の自由」を保障していることは、あなたやわたしがどんな形で口を動かそうが誰にも止められない、という意味ではありません。

より本質的には思想・良心の自由を実効化させんがための表現の自由の確保であり、それはこの国を民主制、つまりみんなの意見をできるだけ反映させて動かしていくため、国家にとって都合が悪いからと言う理由で口を閉じろとはいわせない、戦後の日本はそういう居心地の悪い場所にはしないという宣言です(私見)。

対してもう一方の対立利益は大まかにいって学童やその親の名誉という人格権だといえそうです。

人格権とは名誉や信用などの人が社会生活上保有していると思われる利益のことで、民法710条がこれらを違法に侵害すれば不法行為となると定めています。

実は表現の自由は、あらゆる自由の基礎を保障するシステムとしてその重大な意義からこれまで人格権などを理由にブレーキがかけられたことはありませんでした。

はじめてそれが行われたのが、約3年前の「石に泳ぐ魚訴訟」事件最高裁判決においてです。

小説「石に泳ぐ魚」は、作家柳美里さんがその友人の容姿や経歴など同定可能な内容で表現したもので、友人はショックで大学院をやめてしまいました。

一方柳さんが主張したのも「これは純文学作品である」という、今回の「毎日かあさん」の「フィクションである」と同じラインでした。

最高裁は平成14年、この争いの決着をつけるべく「人格的価値を侵害されたら、人格権を根拠に現行侵害行為を排除し、差止めを求めることができる」とまで言い切りました。

そして重大な権利である表現の自由をそのように後退させるための判断基準として、(1) 侵害行為が明らかに予想され、(2) その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、(3) その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難になると認められるとき表現の自由の差止めまで要求できるのだと要件を立てています。

今回学校側が「毎日かあさん」に変更を求めているのは、「学校を舞台にしないで欲しい」というものです。

もしわたしが作家側であれば、ユーモアたっぷりに描いていた手はその時点で硬直化し、「人の内面活動を外部から操作しようとするとは何事だ」とそれまで思っても見なかった防衛本能が頭をもたげるかもしれません。

その感情には直感的に「表現の自由」というキャップが被されることでしょう。

それが「石に泳ぐ魚」事件の発端であったし、「毎日かあさん」の騒動のはじまりのかたちだったと想像できます。

ただし「石に泳ぐ魚」の場合、最高裁はその本からゆっくり表現の自由のキャップをはずしました。

表現の自由という巨石の前に、世界が全く信じられなくなって血の気を失っていた無力なモデルの女性がいたからです。

西原さんの作品の底流は、その絵に反して非常に文学的な場合があります。

そして文学では、いかに対象を間が抜けているように表現していようとも、最後のページを閉じてみれば、実は全体で深い愛情表現をしていたということがあります。

小学校という親が細心の注意を払う場所ではそういった変化球が暴投ととられてしまう部分もあるのでしょう。

一つだけ確かなことはどちら側の子供にとっても、子供という季節は二度とやり直しが効かないという点です。

大人の面子の付け方にはそれぞれ形があるはずなので、騒動の着地点はそれぞれの子供の横顔を見ながら定めるべきですし、その季節は主義主張を超えて価値を見るべきものです。

 

 

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