サポーターもフィールドに立つ方法がある

サッカー:日本が2-1でイラン降す W杯アジア最終予選(毎日新聞)

「後半32分に、ダエイを倒してPKを与えてしまった中沢は「後半15分ぐらいから足がつっていた。足が動かず『ダメだ』と思った」と残念そう。前半から積極的な展開だったため「飛ばしすぎたかな」とも。先制し、さらに苦しい時間帯に追加点と、ある意味で理想的な展開だっただけに「無失点に抑えたかった。1点奪われたから引っかかるものがある」とさえない表情だった。」

FIFAによる、ドイツワールドカップのレギュレーションの1条2項後段をご覧下さい。

Regulations 2006 FIFA World Cup Germany.

Art. 1

「The winner will be awarded a replica of the FIFA World Cup trophy as its permanent possession.」

(私訳)

「本物はダメだけど、勝ったらワールドカップトロフィーの複製品をあげるね。」

足がつりながら15分間も走り続けるとは、サッカーという職場への期待と、それに応えることの過酷さははかり知れません。

そしてもし首尾良くもし世界で一番のチームとなっても、彼らが永久に持っていいのはW杯の複製品でしかないことがレギュレーション1条2項後段に書かれています。

すると彼らが世界の頂点を目指す本旨は、カップという実物を彼らのホームに備え付ける利己的喜びであるはずがなく、きっとそこにたどり着くまでに一人でも多くの自国民にサポーターになってもらって、自国のサッカー産業をより発展させることにこそあるといえるでしょう。

私たちの手にはサッカーはブームだと背を向けてしまう自由もあり、逆にサポータは12人目のプレーヤーだとのめり込む自由もあります。

しかし一つだけ確かなことは、私たちに寿命というものがある以上、どのような態度をとろうとも、そのことに各自の残り時間を刻みつける取り返しのつかない選択をしているのだということです。

それからすればスポーツであれ政治であれ、単に指導者やプレーヤが作った仕事に対して、ただ単に批判に始終して何も生み出さない態度は、自分の残り時間を刻むのに値するとは思えません。

もしあなたやわたしが政治家やプレーヤーそのものでないとしても、彼らを能動的に応援するという選択をとることは、創造という言葉の一片に時間を投じたことにはなります。

ワールドカップレギュレーション1条2項という条文を、「私たちには寿命がある」というファクターを通して眺むれば、それが少しずつ浮かんではこないでしょうか。
 
 

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