聖地エルサレムをめぐる殺し合いと5年間の奇跡

「欧米の中東介入がテロリストを生んだ」 ロンドン市長(CNN)

「ロンドンのリビングストン市長は20日、英BBCラジオとのインタビューでテロの歴史的背景に言及し、自爆テロなどが発生し続ける原因として「欧米が中東に適用した二重基準」を挙げた。」

国際連合憲章の40条をご覧下さい。

第40条

「事態の悪化を防ぐため、第39条の規定により勧告をし、又は措置を決定する前に、安全保障理事会は、必要又は望ましいと認める暫定措置に従うように関係当事者に要請することができる。この暫定措置は、関係当事者の権利、請求権又は地位を害するものではない。安全保障理事会は、関係当時者がこの暫定措置に従わなかったときは、そのことに妥当な考慮を払わなければならない。」

ロンドンのリビングストン市長が語った、「西洋の用いた二重の基準 」"double standards"とは、具体的にいえばバルフォア宣言フセイン・マクマホン書簡の相違を意味します。

第一回目の世界殺人大会において、イギリスはユダヤ人からの支援をとりつけるべく、「戦勝の暁にはパレスチナを君たちにあげよう」というバルフォア宣言をしました。

しかし同時にイギリスはアラブ人にも「支援してくれたら、パレスチナを君たちにあげるよ」というフセイン・マクマホン書簡を取り交わしてしまうのです。

そして実際イギリス側は勝ちを収めるわけですが、なんのことはない、パレスチナは結局イギリスとフランスの植民地になってしまいます。

もともとユダヤの人々は現在イスラエルと名付けられたパレスチナ地方に、紀元前から暮らしていたといいます。

しかし多くの国から支配と迫害を受け続けたためパレスチナを離れ、欧州各地に移り住んでいます。

そして聖地エルサレムをめぐっては、638年にイスラム軍がそこを占領して以来、キリスト教徒軍との争いが続いてきています。

普通、こういった国際紛争の休戦などを世界が求めるときには、国連憲章40条が持ち出されることになっています。

暫定措置40条という条文は自体が悲惨な方向に向かうことを避けるため、停戦を要請したり、兵力の撤退や休戦協定の締結を要請しようとするものです。

現実にパレスチナ紛争に関して1948年には停戦命令決議や休戦締結要請決議が40条の名の下に出されました。

しかしおもしろいことに、800年前の遠い昔、イスラムの勇者サラディンと、十字軍の指揮官、リチャード一世の時代には、国連憲章などによらずとも、互いの勇気を認め合うことでリチャード一世が病に伏せるとサラディンは見舞いを贈るなどしていました。

そして1192年には自力でイスラム軍と十字軍の講和協定が結ばれ、5年間の不戦さえ約束されていたのです。

その時代イスラムエルサレムを押さえていたにもかかわらず、キリスト教徒は巡礼することが自由に出来ました。

宗教観の衝突による土地所有権の行方は一瞬の間、究極の解決方法を実現していたのです。

しかし互いの視点を受け入れる能力を備えていたリチャード一世サラディンが1199年、1200年に相次いで亡くなるとイスラエルは再び戦火の的になっていきました。

19世紀末になると、各地に分散したユダヤ人が故郷に帰ろうという運動を起こし始めます。

国連は1947年に、「パレスチナユダヤイスラムの両民族に分割して与えよう」というパレスチナ分割決議が出されますが、世界中から急遽集結したユダヤ人により、1948年、イスラエルは強引に建国されました。

これによってパレスチナ人は、まさに理に反して祖国を追い出されるハメになったわけです。

リチャード一世はその勇猛な戦い方から俗にライオンハートと呼ばれ恐れられました。

しかし現代、真にその勇猛さが讃えられるべきなのは、キリスト教という一大宗教を背負いながら、イスラムの視点も受け入れ講和を結んだ点にこそあるのだと、わたしたちには再評価すべき責任が課せられています。

ロンドン市長がこの事態のなかでイスラム社会を理解する発言ができたのは、全く希有な知性だと、パレスチナをめぐる歴史が証明しているのです。
 

法理メール?