ニューハーフの女子房収監と文明の脊髄

ニューハーフの収監者「性別変更」認められ女子房へ (Yahoo)

性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律の第2条をご覧下さい。

第2条(定義)

「この法律において「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。」 

性同一性障害とは、精神的に認識する自分の性別が、身体的性別と合致しない感覚とともに生きてきて、そのことで性別上社会的に要求される役割などとの軋轢を受け、そのままではずっと精神的苦しみを受け続ける状態の障害のことです(私的定義)。

性意識と身体的性の合致して生まれてきた人間が、性同一性障害を抱える人の苦難・苦悩を完全に自分の中に再現することはおそらく困難であり、少数派のそういった人たちはこれまで「個々人の問題」として法律的に放置されてきましたが、社会の成熟化が進んだ昨年7月、やっと施行されることになった法律です。

本法の基本的性格は、「社会」という第三者の集団が、一個の人間の内心と外面にねじれを「公的」に認めようとするものです。

そしてその効果として、本法の条件を満たせば戸籍上、性別を内面に合致させることが認められます。

具体的には、内心自分が女性だと感じている、身体上男性の人が、どれほど女性の格好をしていても空港では男性写真と男性名のパスポート提示を強制されたり、病院の待合室で男性名で呼ばれたりという社会的枠組みとしての障害が除去されることになります。

しかし、「完全な客観」というものがファンタジーでしかないように、本法も無意識のうちにマジョリティの視点が投影されているとも批判されています。

たとえば2条では、戸籍変更に係る3条の条件検討に入る前の段階として、2人以上の医師が「心理的にはそれとは別の性別」をもつ患者であると認定することが必要とされています。

不可逆措置に対する慎重性の確保だともいえますが、そもそも自己申告以外に、内心の形の認定を第三者にしてもらうということに無邪気なおぞましさがひそんでいないかという問題提起です。

もう一度言いましょう、果たしてあなたは誰かに自分の心の形を認定されたいでしょうか?

3条各号の戸籍変更に要する各要件も含め、今後より繊細な改正が必要かと考えられます。

時代の良心は、常にその時点では最高の意識であると信じられてきました。

江戸時代には罪人の首を切って街道にさらすのも普通の社会的意識でしたし、産業革命時代、子供達を目覚めてから眠るまで働かせることも一般社会常識でした。

私たち人間には、自分自身の怠惰な心的態度が、誰かの脅威にならないように、常に自分の意識の成熟度に対して疑いを抱く自由が本質的に与えられています。

それが文明の脊髄です。

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