横槍で剥がれるものを所有とは呼ばない

新株予約権発行差し止めの仮処分 ライブドアの申請認める (朝日新聞)

商法254条の2項をご覧ください。

第254条〔取締役の選任,会社との関係〕

「会社は定款を以てするも取締役が株主たることを要すべき旨を定むることを得ず」

法律上、株主資格と取締役資格とは254条2項により切り離されています。

このような会社の所有者は企業経営に直接関与せず,企業経営が出資者の資格から切り離された経営専門家に委ねられる状況を所有と経営の分離と呼びます。

所有と経営の分離は所有者に「お前はひっこんどれ」とはいっていません。

むしろ経営者に「お前には所有権はないんだぞ」ということを念押ししています。

この大騒ぎ、根底には我々が「所有」という資本主義の種を完全に理解しきっていないという長年の問題が横たわっています。

川島武宜先生は名著「日本人の法意識」のなかで、自分の学生に懇願されて本を貸してやったところ2年も放っておかれ、返却を請求すると全く悪びれず鉛筆で線引きされた本が帰ってきた話を象徴的にお書きになっています。

学生は手中に本をおさめることで次第に川嶋先生の所有権というものを極日本的にだらしなく処理してしまいます。

所有というものが完全に体得されていないのはなにも日本だけではありません。

他のアジア諸国やかつてのソ連においても、所有は変形理解されてきました。

所有は絶対を保証されてはじめて経済活動はその公平な気圧をたもてます。

所有が絶対であるとは、所有物の処分になんの横槍も入らないということです。

マックス・ヴェーバーは近代資本主義が目的合理性で駆動し、目的合理性は可計算性であることをあきらかにしました。

それゆえ所有の絶対こそ近代資本主義の糊になるのです。

所有権と所有物の間を真空状態に保たず、様様な因果律が一物に及ぶことを許すなら、権利主体である我々が地表に落とす影も限りなく薄くなっていきます。
 

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