富の分配とミルの予言

【ライブドア事件】堀江被告、失敗した法廷戦略(iza)
堀江貴文被告を再び実刑とした控訴審判決は、1審判決に続き、「見せかけの成長」を演出し、市場に背いた経営姿勢を厳しく断じた。堀江被告控訴審で上申書を提出し、初めて明確な反省の態度を示した。情状酌量による執行猶予を狙ってのものとみられたが、高裁は量刑判断にあたり上申書をまったく考慮しなかった。強硬だった1審から変化した被告側の法廷戦略は失敗した。」

検察庁法の第14条をご覧ください。

検察庁

14条

法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」

 

個人的には堀江氏になんら好感を持つところではありませんし、確かにライブドアは投資組合を介在させ自社株を操作するなど、投資家を事実上騙すような株式売買の操作を行ってはいました。

しかしながら投資組合をライブドアの実質子会社であるという強引な解釈がなければ、それを迂回した株価操作があっても刑法における罪刑法定主義によりどこにも犯罪は検出されないことになります。

また企業買収の発表が策略的だったという批判もありますが、そもそも商法はいついつまでにその事実を公表せよという条文を定めていません。

それを唐突に偽計と呼ぶには強行な解釈を介在させる必要があります。

さらにもっとも問題視されている粉飾決算ですが、それまでの粉飾決算とは「利益を有していないのに、さも儲かったように会計上見せること」をいいました。

対してライブドアが行った行為は、自社株の売却益を投資組合や買収企業を迂回させ自社の収益のように見せかけたにすぎず、実際には彼らは利益を有していました。

グループ内の利益の付け替えなど、日常的業務のごとくわたしたちの国の企業では行われているのが実情です。

税処理の面でも、国税庁の解釈で大企業が申告漏れを指摘されたなどというニュースは、日常的に報道されているのに対して、堀江氏の税務処理は企業代表としては珍しいほどクリアなものだったといいます。

こうなると堀江氏を決定的に断罪する為には、彼の内心に違法性の認識というものがあったとしなければ他の企業の日常との区別がつけられません。

ライブドア裁判において長く違法性の認識が争われているのはこうしたわけからです。

一説にその強制捜査は、ヒューザーの耐震構造偽装尋問を翌日に控え、国会に別の衝撃を与えるために労された策だったと長く噂されています。

そしてそもそも地方検察庁とは、強固な哲学の元に行動することが許された思想集団などではなく、その本質はむしろ上命下達の行政組織であるというところにこそあります。

それがゆえに後に裁かれるコクド、カネボウを前にしても、長年動かなかったのもまた同じ検察という庁舎でした。

彼らを取り巻く法文をながめてみれば、検察庁法の14条は法務大臣の検察事務に関する指揮監督権を規定しています。

庁法14条を介在させて、法務大臣検事総長へ具体的事件について指揮できる権限を「指揮権」と呼び、大臣が実際にその権限を行使することを「指揮権発動」と呼んでいます。

検察権はそもそも行政権に分類されていますから、内閣責任原理の下では法務大臣の指揮権発動は当然の機能だともいえます。

と同時に検察権は司法権と密接不可分の関係にありますから、検察権が立法権や他の行政権から健全に独立していることもまた、個人の人権から論理構築している憲法体系下では要求されるはずです。

14条が但し書きを用いて、内閣へアクセルとブレーキを同時にかけるような文言になっているのはこのためです。

もし庁法14条の指揮権発動をフックに、どこか超越した場所からの意図が働く捜査があったとしたら、場合によってそれは、いわゆる国策捜査と呼ばれることになるかもしれません。

それは三権分立の建前をかなぐり捨てた、”剥き出しの国家”の姿だとさえいえます。

14条の立法趣旨に鑑みれば、それはバランスを個人の尊厳に向かって倒壊させる危険行為です。

しかしながら視点をいったん国家運営という究極の立場に移してみれば、そうした危険な解釈への要請も完全に否定しきることができなくなります。

切れ者集団、ライブドアと堀江氏についてかえりみれば、巨大な富を自分と仲間達の元に集中的に集めることで、慣習が支配する社会に対して”競争の公平”を求め続けていました。

そしてその請求根拠を、経済社会唯一の共通言語であるところの「富」に求めていたはずです。

しかしながらいつかその正義感は、結果的に社会が総合的に「富」に期待する仕事を、あまりに一面的に規定してしまい、いつか社会価値観への挑戦となってしまったといえそうです。

ライブドアの約10倍規模の粉飾決算を行っていた日興コーディアル証券でさえ、その制裁が単なる課徴金のみで済んでしまっているのは、コーディアルにはそうした社会意識へ挑戦するような言動も思想もなかったからだとさえいえます。

中央銀行による富の総量コントロールが必須である以上、社会に富の一点集中が起これば、逆に広い範囲に富の枯渇が生じることになります。

富の分配について、かつて英国の哲学者、ジョン・スチュアート・ミルはこう看破しています。

「ある人がだれの助けも借りず、個人的に骨折って生産したものでさえ、社会が認めなくては自分のものとして保有することはできない。社会はそれを彼から取り上げることができるだけでなく、その人の保有が妨害されないように社会が報酬を払ってだれかを雇わなければ、別の個人がそれを彼から取り上げることもできるし、実際に、そうしたことが起こるだろう。したがって、富の分配は社会の法と慣習に依存する。社会で優勢を占める人々の意見と心情とが、富の分配を決める規則をつくるのであり、そうした規則は時代により、また国により大いに異なる。」(出典:入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫)

わたしたちの”社会”は、その気になればすべての富を国王に与えようとすることもできますし、反対にその富を用いて巨大な慈善施設を運営しようとすることもできます。

そしてそれを決定するのは、修正され続けるわたしたちの法と慣習でしかないということです。

そこにははじめから摂理のような正しい分配など存在しません。

検察が絶対正義という秤を金輪際持ち得ないのと同様に、社会にはこれからも富を適当と思われるように分かち与える立場の人々と、一定の意志が現れつづけるだけなのが現実です。

既得権益に立ち向かっていった堀江氏の内面には、悪気のない正義感が確かに存在していました。

しかしながら富を一元解釈しすぎた堀江氏を、強制捜査という法の流れで押し流しってしまったその圧力の底流には、「国は運営されなければならない」という至上の命題と、ミルの至言が流れているように思えます。(参照書籍:ライブドアショック・謎と陰謀―元国税調査官が暴く国策捜査の内幕逐条解説検察庁法