五重の排除の理論と、這い回るミーム

【Re:社会部】「遠くの事件」に違和感(産経新聞)
「東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、加藤智大容疑者(25)が勤務していた関東自動車工業を取材し、同社の事件に対する「心情的な距離」を感じました。事件翌日の9日に開かれた記者会見。加藤容疑者が事件3日前に無断退社した様子について、同社幹部は最初、「分からない」としましたが、会見後半で突然、「ツナギがないと騒いでいた」と説明を変えました。この幹部は憮然と「(退社の経緯は)重要ではないと思っています」と弁明しました。会見前には、広報担当者が笑顔を振りまきながら対応し、報道陣から「笑い事じゃない」と怒声が上がる一幕もありました。」

放送法の3条の2をごらんください。

3条の2(国内放送の放送番組の編集等)

「放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

1.公安及び善良な風俗を害しないこと。
2.政治的に公平であること。
3.報道は事実をまげないですること。
4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」 


毎日毎日働いているのに何故か貧困が身に迫ってくるという現代のわたしたちを取り巻く問題を、個人の責任だという安直な分析から解放した岩波新書「反貧困」のなかで、著者である湯浅誠さんはこう語っています。

「これまで述べてきたことを踏まえて、私は貧困状態に至る背景には「五重の排除」がある、と考えている。

第一に、教育課程からの排除。この背後にはすでに親世代の貧困がある。

第二に、企業福祉からの排除。雇用のネットからはじき出されること、あるいは雇用のネットの上にいるはずなのに(働いているのに)食べていけなくなっている状態を指す。非正規雇用が典型だが、それは単に低賃金で不安定雇用というだけではない。雇用保険社会保険に入れてもらえず、失業時の立場も併せて不安定になる。かつての正社員が享受できていたさまざまな福利厚生(廉価な社員寮・住宅手当・住宅ローン等々)からも排除され、さらには労働組合にも入れず、組合共済などからも排除される。その総体を指す。

第三に、家族福祉からの排除。親や子どもに頼れないこと。頼れる親を持たないこと。

第四に、公的福祉からの排除。若い人たちには「まだ働ける」「親に養ってもらえ」、年老いた人たちには「子どもに養ってもらえ」、母子家庭には「別れた夫から養育費をもらえ」「子どもを施設に預けて働け」、ホームレスには「住所がないと保護できない」1その人が本当に生きていけるかどうかに関係なく、追い返す技法ばかりが洗練されてしまっている生活保護行政の現状がある。

そして第五に、自分自身からの排除。何のために生き抜くのか、それに何の意味があるのか、何のために働くのか、そこにどんな意義があるのか。そうした「あたりまえ」のことが見えなくなってしまう状態を指す。」

また著書は2008年4月28日に出版された本書(つまり6月8日に加藤智大(ともひろ)容疑者(25)が秋葉原の交差点で無差別殺傷事件を起こす約一ヶ月前)のなかで、こうも続けています。

「期待や願望、それに向けた努力を挫かれ、どこにも誰にも受け入れられない経験を繰り返していれば自分の腑甲斐なさと社会への憤怒が自らのうちに沈殿し、やがては暴発する。」

(引用:反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124)

自己責任論は、本人たちから被害者意識を払拭する機能を外装しています。

しかしながら一方で、巧妙に隠蔽された舞台的不条理が存在している場合にも、単に演者同士を破砕するだけで論を構造上の問題にまでは遡らせないという仕事を内包をもしています。

事によると国民総生産を上げるという名目のため、今日もわたしたちの暮らす社会には非常に不自然なテンションがかかり続け、その帳尻はたくさんの個人の尊厳をエアパッキンを押しつぶすように連続して自滅していってもらうことで合わせている”可能性”さえ見えてきます。

(警察庁のまとめによれば、日本の自殺者数はここ9年連続で3万人を超えています)

そしてあのTV写りのいいニュースキャスターが、いつもごく自然に口にする「最終的には本人が悪いのですが」という吐息が、社会を鈍磨させる痛み止めとして次々わたしたちの口に移植されているのかもしれません。

放送法の3条の2は、放送事業者に対して「意見の対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を要求しています。

しかしながらその要求の度合いは、視聴者の「知る権利」の保護の観点からも国家の手元を離れ、放送事業者の自主規制に委ねられているのだと通説上考えられています。

そして放送事業者はあくまでも私企業であり、彼らの収益はつまりコマーシャル枠を買い取ってくれる広告主の機嫌ひとつにかかっています。

すなわち、わたしたちの論は宿命上、広告主までは決してたどり着けないのです。