神の法を焼いた男

コーラン焼いたイスラム教徒男性に死刑判決 パキスタン(朝日新聞)
パキスタン東部シアルコットの地裁は18日、イスラム教聖典コーランや預言者ムハンマドをおとしめたとして、20代前半のイスラム教徒の男性に死刑を言い渡した。イスラム教を侮辱した罪での死刑判決は同国ではまれで、今まで執行された例はないという。判決などによると、男性はコーランを焼き、ムハンマドを侮辱する言葉を使ったとして06年、シアルコット市近郊の村で逮捕された。(イスラマバード) 」

日本国憲法の第13条をご覧ください。

第13条

「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」

イスラム教的世界観によれば、全自然は神の記号で満たされています。

たとえばコーランの二十四章と三十五章には、光が比喩として、神の象徴として現われますし、また別の箇所では、「神は比喩として蚊を用いることも恥じない」(2章、26章) とも記されています。

さらにイスラム神秘主義の象徴的なコーラン解釈によれば、世界のあらゆる形而下的なものは形而上的なものを暗示しており、現世とは神的な美をぼんやりと映しだす鏡のようなものだと解釈します。

スーフィー教徒にとって、世界の展開とは神の本質からイデアの世界を通って自然と人間の世界にいたる「下降の弧」なのです。

その視点において、神は内在的であると同時に超越的であり、「脛動脈よりも人間に近い」(『コーラン』第50章第16節)場所に顕在し得ます。

(参照:シンボルのメッセージ (叢書・ウニベルシタス) マンフレート ルルカー

一方で、キリスト教世界の視点をもってするならば、聖書があっても神がその万物の”法”を人間の目で見える形で出版した書物は存在しません。

しかしながら彼らは、人間には理性というものがあり、神の法が存在するならばそのうちで人間の理性によって推測できるもの、つまり「自然法」があると考えました。

あらゆる地上の社会が、殺人や窃盗などを禁じているのは、人が自然法を見つけ出しているからにほかならず、結果的にそうした自然の規律が(キリスト教における)出版されざる神の法の存在を証明することにほかならないと考えたわけです。

人が啓蒙思想の時代を迎え、国家が教会の支配を脱し世俗のものとなって、「神の法」がなくなってしまうと、(思想上の)法のヒエラルキーが瓦解して、自然法が究極の根拠に繰り上がりました。

その段階で”自然法”こそ、従うべき最高規準と代わったのです。

やがて自然法という視点は、人権という概念に徐々に焙煎されていくことになります。

(参照:人間にとって法とは何か (PHP新書) 橋爪 大三郎)

日本の憲法13条もまた、”自然法は絶対”という一つの世界観を採用しており、それを理論的基礎として個人が幸福を追求する余地の確保を国家へ命令しています。

自然法という偶然のイデアを召還する道のりで、人の性は王の首をも切り落としてきました。

頸動脈より近くで響く神の声を焼いた青年を死刑とするのもまた、同じように人という生き物の性であることには変わりがありません。