【歌織被告に懲役15年】白一色に身を包み 刑宣告にも表情変えず(iza!)
「公判を通じて、歌織被告は、祐輔さんの有形無形の暴力を時には涙を交え、時には怒りに声を震わせながら供述。その一方、毎回九州から上京しては、傍聴席の最前列で祐輔さんの遺影とともに公判を見続けた遺族への謝罪の言葉はなく、この日も目を合わせることもなかった。」
刑法の39条をご覧下さい。
「第39条(心神喪失及び心神耗弱) 1 心神喪失者の行為は、罰しない。 2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」 |
(以下参照:刑法判例百選1総論(第6版) 別冊ジュリスト189)
昭和6年12月3日、大審院はその判決で心神喪失を「精神の障碍に因り事物の理非善悪を弁識するの能力なく又は此の弁識に従て行動する能力なき状態」であると定義しています。
また同じく心神耗弱とは「精神の障碍未た上叙の能力を欠如する程度に達せさるも其の能力著しく減退せる状態」であるとも定義しています。
これが法廷における39条の意味づけです。
法学説上も、心神喪失は精神の障害に基づき自らの行為の違法性を認識する能力あるいはその認識に従って犯行を思いとどまる能力がない場合、心神耗弱はそうした能力が著しく減少している人だとしています。
裁判所も法学説も、認識・制御能力の障害が「精神の障害」に基づいたものであることを要求しているのは、認識・制御能力の有無・程度だけで判断したのでは心神喪失・心神耗弱の範囲が無限定になるし、その判断が不安定になるからです。
札幌地裁の昭和47年7月11日判例も、「正常人が……自我ないし人格の統制機能を失って,短絡的に衝動行為に出たとしても」「全面的に人格的統制機能の欠如した状態で行われた短絡的衝動行為であるとしても」心神喪失・心神耗弱にはならないのだといっています。
ただし責任能力制度は、わたしたちの社会が使う刑法の根幹である責任主義を体現しているものです。
責任という意識の橋を自ら渡ったかどうかわからないのに、いたずらに39条適用要件を厳しくしてしまうのでは責任主義はただの建前に貶められます。
それゆえ、これまでの判例では精神の障害の種類ごとに、おおむね責任能力の判断基準が確立されてきました。
ところでいかに司法の世界では精鋭であるはずの裁判官でも、精神医学については普通素人です。
つまり医療のプロが下した診断名を全否定することは、たとえ場所が法廷でももはやできません。
司法のシステムを内部破綻させないためにも、裁判官はこの限りでお医者さんの下した診断名の影響を受けます。
しかし責任能力の判断は,刑罰を科すか、またどの程度に科すかというあくまで法という世界観が下す判断です。
よってその判断はお医者さんの下した診断名とは位相を違えた、裁判官の見る世界によるものになります。
最高裁も昭和58年9月13日決定で「〔法律判断の〕前提となる生物学的,心理学的要素についても,右法律判断との関係で究極的には裁判所の評価に委ねられるべき問題である」と判示しています。
司法という道具は、神の裸をひもとく科学とは、異なる動機で編まれ続けているのです。(私見)
今回の判決でも、裁判官は医療の判断を全肯定しながらも、39条という非常出口の扉を開くことを拒んでいます。
歌織被告にはその証言通りであれば、心身ともに非常につらい生活が続いていたことでしょう。
しかしながら、医学と逆の結論をあえて読み上げる裁判官が背負ったものが”責任”ならば、犯行時の歌織被告にあったとされたものもまた、”責任”と呼ばれるものなのです。