ルール・イスラミア:人ほどの存在よ

ハンド再予選開催でアジア連盟「東京五輪不支持」(iza)
「国際ハンドボール連盟(IHF)は「中東の笛」と呼ばれる疑惑判定を糾弾した日本と韓国の訴えを聞き入れ、予選のやり直しを決定した。しかし、傘下であるはずのAHFは手続きの不当性を盾に取り、対決姿勢を鮮明にする。アハマド会長はIHF寄りの日本を「違法な大会を支持する国を、今後どうして信用できるだろう」と攻撃した。」

国際ハンドボール連盟の試合ルール、8.6をご覧下さい。

International Handball Federation Rules of the Game

Rule 8 Fouls and Unsportsmanlike Conduct

「It is permitted to: 8:6 Seriously unsportsmanlike conduct by a player or team official,on or outside the court (for examples, see Clarification No. 6),shall be punished with disqualification (16:6d).」

(私訳 ルール8:ファウルおよびスポーツマンらしくない行為

8:6、選手またはチームの審判によるひどくスポーツマンらしくない行為は、コート内あるいは外で失格にできる) 

法というものを端的にいえば、それは強制をともなったルールなのだといいかえられます。

もし法律からその強制力を剥がしてしまい、いったんただのルールに戻せば、それはわたしたちひとりひとりが幸福を追求する権利と、わたしたちが所属するそれぞれの集団の運営との折衷案でしかありません。

個々人の帰属する集団にルールが存在することが、遠回りにわたしたちが幸福をできるだけ追求できるよう機能しているのです。

しかし誰もが必ずしも折衷案に納得するわけではありません。

そういうときのため、ルールに強制力を装備したもの、それが法律と呼ばれているわけです。

ところでそもそもわたしやあなたはなぜ、国家が強制力をもってひとつの約束事を強制してくる事態をすんなりと受け人れているのでしょうか。

それは法律とよばれるものが、現時点で考え得るもっとも公平な正義であることを、わたしやあなたが納得しているはずからだと考えられています。

このわたしたちの感覚のことをルソーは、一般意志と呼びました。

ただもう少しよく考えると、なぜ人の一般意志が正義なる社会折衷案の正解に限りなく近くたどり着けるのかは不思議な気がします。

人間の歴史とは、一方で過ちとその修正の歴史だったともいえるからです。

この点、自然法思想と呼ばれる考え方は、人には理性があるからこそ、正義という正解にたどり着けると考えます。

かつてトマス・アクィナスは、著書『神学大全』のなかで、世の中の法律を「神の法」、「自然法」、「実定法」の三つに分類しました。

まず神の決めた絶対的な法があり、そのうちで理性のある人間だけに見える一部の法があり、これを自然法と呼びます。

そしてそれをもとに人間ほどのものが具体的に作り上げたルール、それが実定法だという分類です。

実はイスラム教徒には古くから教徒のための神が作った生活基盤を規定する法律、「コーラン」が存在していました。

キリスト教徒は彼らイスラム教徒の揺るがざる論理的基盤に対抗するため、コーランという「出版されている神の言葉」に対抗して出版されざる神の言葉、「神の法」という概念を編み出したといいます。

そして「人を殺してはいけない」「物を盗んではいけない」など全世界共通のルールは、神の法のうちから人の理性の目に見えた自然法だとしたのです。

それを具体的法律に直したものが実定法です。

キリスト教徒の務めは、「神の法」に従うこと。

そのためには、「自然法」に従うこと。

さらには「自然法」に従う限りで「実定法」に従うということです。

やがて啓蒙思想の時代、国家が教会の支配を脱して神の法はなくなりました。

その結果、「自然法」が繰り上げ第一位となったわけです。

やがて自然法という思想ツールは、一国の王の首まで切り落とすフランス革命を発動させるまで機能しました。

そしてそれらはすべて、キリスト教徒がコーランに対抗するため建築したアイデアだったというのです。(以上参照:橋爪大三郎 人間にとって法とは何か (PHP新書)

クウェートの王族が事実上支配するといわれるハンドボールのアジア連盟。

王の言葉は神の言葉だとルールを運用する審判への絶対服従を要求するのか、「王といえども」の自然法思想により不合理なルール運用には国際ハンドボールルール8.6を適用してこれに対抗できるとするのか。

スポーツのルールへの解釈ひとつとっても、それぞれがそれまで従ってきた神の衣が見え隠れしているのだと、気の利いた心理学者ならいうかもしれません。