男は遺族の前でドラえもんを信じたと口走る

「聞くに堪えない3日間」=元少年から見下ろされた-遺族の本村さん・母子殺害 (時事通信)
「元少年の被告(26)の口から殺意と乱暴目的を否認する言葉が次々と出たことに「聞くに堪えない3日間。あまりにも身勝手な主張が多く、亡くなった者への尊厳のかけらも見えなかった」と語気を強めた。本村さんは3日間の法廷に、亡き妻と娘の遺影を胸に臨んだ。この日、被告が退廷する間際、事件後に初めて目が合ったという。「鋭い目でにらみ付けられた。遺族を見下ろされた。きょうほど憤りを感じたことはない」と深い怒りをあらわにした。」

刑事訴訟法の289条1項をごらんください。

289条

「1 死刑又は無期若しくは長期三年を超える懲役若しくは禁錮にあたる事件を審理する場合には、弁護人がなければ開廷することはできない。」 

訴訟の主導権を当事者にまかせ、裁判所は中立的な立場から検事と被告人の主張を判断しようという考え方を、当事者主義と呼びます。

もし刑事裁判が真実を明らかにし、迅速・公平な裁判を行うことだけを目的にしているなら、裁判所が訴訟の主導権を握っていいはずで、実際戦前はそうした刑事裁判が行われてきました。

しかしその職権主義は度を超すと、裁判官がキリキリと被告人を責め立てる裁判システムに通じる傾向を露わにしはじめます。

そうした刑事裁判では、もしわたしやあなたが誤って被告人となってしまったとしても、裁判官にとって聞かれたことだけ答えればよい、単なる取調べの客体としかなりえません。

そこで現代の刑事訴訟システムは戦前の風潮を反省し、裁判官が一歩引いた当事者主義を強調することになっています。

しかし一方でいったい現場で何があったのか、だれが犯人なのかをはっきりさせるという要請もまた重要であり、現代刑事訴訟ではその両者のバランスのとりかたが一大課題になっています。

そもそも当事者主義という哲学をささえる土台には、事実を追究する人と判断する人が同じ立場にいれば、判断が一方方向に偏りがちになるという人間への危惧があります。

わたしたち人間は、だいたいにおいて「自分が正しく、相手が間違っている」と考える生き物だからです。

当事者主義は、その人間の特性を補いつつも、刑事訴訟の目的をよりよく果たさせようとするレバレッジであるはずです。(私見)

そしてそのためには、検察官と被告人は堂々対等に渡り合えなければなりません。

そのことを特に被告人当事者主義とよびます。

黙秘権や弁護権という武器が被告人に与えられているのは、検察官という強大な権限の前でも被告人当事者主義をただの建前に終わらせないためなのです。

ただし一方で、被告人当事者主義による防御方法の数々が、法廷でそれを聞かされる遺族の感情もいとわなくてよいものかどうかは、訴訟技術とは別の位相にある問題です。

遺族感情を考慮して、刑事訴訟をより繊細に構築するならば、本来想像力という感受性が果たすべき役割も、もはや条文として用意しなければならない段階にあるのかもしれません。

 

 

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