感情を埋葬せよ

愛染恭子 14歳の姪に恋人取られ暴行 (スポーツニッポン)
「愛染容疑者は「14歳なのに大人と交際していたので、しつけのために殴った。やりすぎた」と容疑を認めている。姪は野田署に「いけないことをしたので殴られた。ただ、あまりにもひどく殴られたので、“もしかしたら殺される”と思って家を飛び出した」と語っているという。」 

児童虐待防止法の第2条をごらんください

児童虐待の防止等に関する法律

「第2条(児童虐待の定義)

この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。
 一 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
 二 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
 三 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前二号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
 四 児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。」 

もし親が健全ならば、子供が目の前で怒りや悲しみを爆発させてもそれらは全て受容され、十分な愛撫とともに育てられます。

逆にそう育てられなかった人は、思う存分泣きたかったという思いと、叱られないために泣かなかったという思いが、未消化のまま彼らの中に存在しつづけることになります。

そもそも子供の頃の怒りの底辺には、存分に愛して欲しいという欲求があります。

しかし怒りの形で愛を求めても、それを拒絶してしまう親に出会えば、子供はその怒りを一定の行動傾向により隠されていかざるをえません。

そして深層に理解され尽くしていない感情を残したまま親になれば、目の前で感情を自由に表現する子供を前に、”自分はあれほど堪えたのに”という感情の爆発を抑えきれなくなるというのが、児童虐待のひとつのプロセスだといわれます。(参照:閉じこもりの原因と治療―登校拒否から出社拒否へ 黒川昭登)

児童虐待防止法2条にいう「保護者」とは、親権を行う人、未成年後見人その他の人で児童を現実に看護、保護している場合の人をいいます。

そのためたとえ親権者であっても、その養育を他人任せにしている人は保護者にあたりません。

逆に親権者や後見人でなくとも、親と同居して親のように面倒をみている大人なども、児童を現実に監督、保護している場合には児童虐待防止法2条にいう「保護者」に該当します。

児童とは児童福祉法同様、満18歳未満の人のことです。

児童虐待防止法2条はそれらの言葉の定義をはっきりさせることで、守られるべき子供と処罰対象となる大人の範囲を明らかにした条文です。

2条が捕捉する”怒りをコントロールできない親たち”の中に、もし未消化の感情を認められれば、周囲の苦言は残念ながら功を奏さないかもしれません。

なぜならそれは彼らに対して、新たに彼らの感情の埋葬を強制する”新しい親の出現”以上にはなりえないかもしれないからです。

むしろ児童虐待問題は、現代において全ての大人に対して、未消化の感情の潜在を問うてみることはとても大切なのだと警鐘しているかのようです。

もちろんそれによって大人の暴力から直接的に救われるのは今を生きる子供達ですが、同時に私たち自身も少なからず救われる気がするのです。

 

 

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