問われざる資格は覚悟

お手柄中学生 事故車から男性救出(KSBニュース)
「5日午後8時15分頃、 坂出市府中町の県道で右折しようとしていた軽自動車に、後ろから来た乗用車が追突しました。この事故で軽自動車は横転し、運転していた近くの藤田健さん(72)が車の中に閉じ込められ、後ろの燃料タンクから火が出ました。その直後に自転車で現場を通りかかった中学3年生の男子生徒が素手でフロントガラスをたたき割って、藤田さんを車から引っ張り出しました。その後車は炎上し、まさに間一髪の救出劇となりました。この事故で藤田さんが首などに全治1週間のけがをしたほか、中学生も右手に軽いけがをしました。」

民法の697条をごらんください。

第697条〔管理者の管理義務〕

「義務なくして他人の為めに事務の管理を始めたる者は其事務の性質に従ひ最も本人の利益に適すべき方法に依りて其管理を為すことを要す

管理者が本人の意思を知りたるとき又は之を推知することを得べきときは其意思に従ひて管理を為すことを要す」 

事務管理とは、近所の家が燃えているのを発見したのでドアを壊して隣家に入り助けるなどのように、法律上の義務がないのに他人のためにその事務を処理することをいいます。

しかし民法には、「人命を救助すべき場面においては、これを救助しなければならない」というような規定はありません。

一般的な場合を別として、他人の緊急な危難を目撃し、しかもこれを救助するだけの能力と余裕とを有する人には、法律上これを救助すぺき義務があるとできる法理論的な余地は見つけられます。

現に、水難救護法は、遭難船舶を発見した者は遅滞なく最近地の市町村長または警察官吏に報告すべき義務があるものとし、また、船員法は、船長に対し、他の船舶または航空機の遭難を知ったときは、人命救助の義務があるものと定めています。

たしかにこれらは、いずれも、管理者の本人に対する私法的義務ではなく、管理をなすべき公法的義務の設定です。

しかし、放任行為とされている事務管理が、特殊の場合に強制的な行為とされている法の場面だと見ることも可能です。

それのみならずこの思想は、社会共同生活における道徳的規範として、これに違反する行為・不行為は違法性を帯びるものと法で定めることによって、間接に強制される場合のあることを知らしめています。

例えば、ドイツ刑法が、一定の急迫した犯行の存在を知ってこれを官憲または被害者に告知しないことを犯罪とするのは、この思想の一顕現であるといわれます。

わたしたちの国でも明治時代、お寺の所有者に解雇された病人が、その寺の境内にある千仏堂に無断で入り込んで寝臥していたのを放置し死なせてしまった事件がありました。

このとき大審院は所有者を遺棄罪に問擬し、次のように結論づけています。

「肺結核病の為め身体衰弱し、業務に服する能はざるは勿論、他の扶助を受くるにあらざれば生存する能はざる状態に陥り被告等の住所たる教信寺境内千仏堂に寝臥し居たるものなるを以て、たとえ被告等に法令もしくは契約に基く扶助の義務なしとするも、之を扶助せずして遺棄するが如きは、善良の風俗を害することの甚しきものにして、刑法における疾病の為め扶助を要する者を遺棄したる者に該当すること論をまたず」

この判例は状況次第で事務管理が潜在的義務となることを認めたものだと読むことも可能です。

[以上参照:民法講義〈第5 第3〉債権各論 我妻栄 岩波書店]

業火を前にした中学生の私が、もし同じように車の中にご高年を見つけたら、同じようにフロントガラスを拳で叩き割ることができたものか、全く自信がありません。

しかし事務管理という思想が、社会という同じ船にのる乗組員として潜在的に課せられている義務なのだとすれば、ためらいなく自分の拳を人命救助に使った中学生には、誰よりもその自覚があったといえます。

わたしたちは年若き人がそのような無意識の覚悟をもっていたことに、心が動かされているのです。

 

 

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