轢き逃げ犯:蛇と契約する人

「差別怖くて逃げた」ブラジルで被告語る ひき逃げ事件(朝日新聞)
「被害者の遺族に対しては「私も父親として、気持ちは理解している。日系人としてしつけられ、お墓に参らなければならないという気持ちもある」と述べた。一方で「ブラジルで罪を償ったとしても、日本に行けば逮捕される可能性はぬぐえない。父親として仕事をし、家族を養う責任がある。日本に行くことはできない」と話した。」

刑事訴訟法の第247条をご覧ください。

第247条〔国家訴追主義〕

「公訴は、検察官がこれを行う。」 

わたしたちはお互いに自分がやりたいことをやりたい、いきたいところにいきたいという欲求をかかえた存在です。

たとえば究極の問題として、わたしはわたしの命を守らなければこの一生は悩むまでもなく終わってしまいます。

そうすると、二人以上の人間が集まるときには互いがその欲求を抱えているため、それを調整するためのものさしが必要になります。

問題はどのようなものさしを削り出すかです。

そもそもおよそ命の意味を出発点に考えれば、わたしやあなた各個人の自由意思がまず尊重されなければなりません。

しかしたとえば、あなたがお仕事中に誤って、私の家族を車で轢いてしまったとしましょう。

「人は轢いてしまった。しかし養う家族のために捕まりたくはない」というあなたの自由意志は、「家族を轢いて逃げた犯人に絶対に責任を取らせたい」というわたしの自由意志と正面から衝突します。

つまりわたしたちが法律というものさしが支配する社会で生きるということは、意思決定の自由が保障されると同時に、他者の意思決定に対する責任をも背負うことを認めていることと同義なのだといえます。

もしそうでなく、加害者であるあなたが、残された家族があれば逃げてもよいという社会を要求すれば、翌日自分が守ろうとしたその家族が、別の誰かの車の下敷きになったとしても、事情次第で同じように逃走を是認しなければならなくなるからです。

”社会”という寄り合う人間の数が限りなく大きくなった場所では、わたしやあなた個人の無邪気な自由意志を阻む、他者の自由意志の総意はやがて”秩序維持”と呼ばれるようになります。

そしてわたしたち一人ひとりからとりつけた同意によって権力が形成され、社会はだれかを轢いた上で逃げたあなたを探し出し、あたなの自由意志とはうらはらに、法廷へつれてくることを是認します。

国家の誕生です。

つまり”社会”という概念は、空の上から唐突に降ってきたわけではなく、一人一人の自由意志を最大限保障するために誕生させた権力が、わたしたちを再度拘束にきているものだと解釈できるのです。

これをルソーは社会契約説と呼びました。

そしてその場合、わたしがもし家族を轢き逃げしたあなたへ私的制裁を加えたいという衝動を抱えたとしても、それは刑事訴訟法という国家作用へ代理されることになります。

それがわたしも加わった合意だからです。

そしてそれが刑事訴訟法247条が私的な制裁を許さず、訴追を国家だけに許すという国家訴追主義を採用していることの、そもそもの出自なのだといえます。(私見)

国家は、まずわたしたちの胸の内から始まる意識の総意なのだからこそ、わたしたちはその作用に従うのだといえます。

(だからこそわたしたちは、常にその暴走に目を光らせなければなりません。)

ブラジルへ逃げたヒガキ・ミルトン・ノボル被告は、家族への扶養義務を盾に逃走した心情への理解を社会に要求しています。

しかしその申し出は同時に、ヒガキ被告の家族を誰かが轢き逃げしたとしても、事情次第で逃げ延びることを認めなければならないという、おぞましいものが支配する社会への契約であることを、彼もまた気がついてはいません。

 

 

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