イントレランス:絶望の素地

投げ落とし「男児が死んでもいいと思った」(日テレnews24)
「吉岡容疑者は軽度の知的障害があり、福祉施設に通っているが、動機について「施設内での人間関係がうまくいっていなかった」「警察に捕まれば施設を出られると思い、たまたま目の前を通った璃音ちゃんを襲った」と話しているという。 」

受刑者処遇法の第1条をご覧ください。

刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律

第1条

「この法律は、刑事施設の適正な管理運営を図るとともに、受刑者等の人権を尊重しつつ、その者の状況に応じた適切な処遇を行うことを目的とする。」 

知的障害のある人たちは、知能の不足によって読むことや書くこと、そして社会生活を送ることに不自由さが生じています。

その原因には、出産時の酸素不足や脳の圧迫などによる影響などもがありますが、原因不明であったり、乳幼児期の事故や生後の感染症の後遺症で脳に損傷が起こった場合などもあります。

(以下、多くを山本譲司さんの「累犯障害者」から参照させていただきます。)

法務省発行の「矯正統計年鑑」の「新受刑者の知能指数」によれば、およそ3割弱の受刑者が知的障害者なのだといいます。

しかしいうまでもなく、知的障害と犯罪の動因とに医学的因果関係など存在しません。

むしろ本来知的障害をもった人達の多くが規則や習慣にきわめて従順で争いごとを好まないといいます。

しかし知的障害は、時に善悪の判断を時にあいまいにしてしまいます。

それにより、一旦知的障害者が罪を犯してしまうと、まず刑事裁判の場では有罪を受けやすく、次に監獄の中ではリハビリなどほどこされず、さらに出獄すれば触法障害者として福祉の手からも除外されてしまうというのが現実なのだそうです。

福祉が触法障害者への関わりを敬遠するのは、行政が給付金を算定するにあたり、障害程度を日常生活動作のみで判断し、体が自由に動く障害者には給付金が加算されない点に帰着するのだといいます。

しかし体が自由に動く障害者のほうが、その分日常生活に周囲からの注意が必要なのはいうまでもありません。

もしひとたび触法障害者となれば、受け手のいない彼らは、現実的には路上生活者になるか、犯罪組織の使い走りとなるか、病気ではないにもかかわらず閉鎖病棟に収容されるしかない、もしそうでなければ再び犯罪をあえて犯すことで刑務所という触法障害者の代替保護機関に戻るしかないのだというのです。

かつて長く監獄を支配した「監獄法」には矯正や更生といった言葉が存在せず、常に過剰収容状態の刑務所では、知的障害者の矯正など現実には行われてきませんでした。

そこで2005年5月18日、監獄法を全面的に改正した受刑者処遇法が成立し、その1条には「受刑者の人権尊重」が掲げられ、触法障害者の矯正機構なども今後随時設けられていく予定です。

健常人を基準にする世界とは、不幸にして基準に足りない人の失態を絶対的に許さない世界です。

しかしたとえばわたしという人間一人をとっても、今日という一日をどれほど完全にこなせたことでしょう。

そしてもし、私のような愚鈍な人間を寛容してくれない天才ばかりがわたしを覆い尽くしていたとしたら、わたしはただ生きていることを申し訳なく、意味もわからず命絶えるまでこの肩をすぼめているしかありません。

さらにその天才たちも、やがて年老いて物の判断がすばやくなくなったとき、いったいその不寛容の世界にあってはどう呼吸ができるでしょうか。

知的障害を受けた人を見て、古来から彼らをなにか忌まわしいもののように社会から疎外してきたのがわたしたちの幼い歴史です。

やがて社会は成熟し、「彼らとて我らである」と悟ったわたしたちは、福祉という装置を社会に装着しました。

監獄法も同じような成長の末に、受刑者処遇法へと姿を変えました。

吉岡容疑者はこれまでに6回、誘拐事件を起こしてきたのだといい、ここにきて再び犯罪を犯しています。

それが許されざるものであることは、健常者となんら変わることはありません。

ただし一旦わたしたちが問題解決に主体性をとりもどせば、それは社会の安全装置が絶望を未然に防ぐ機会を、6回もしくじってきたのだとも言い換えられます。

わたしたちが福祉という装置を完全に駆動させられるまで、一人の触法障害者をどれほど罰しようとも、悲劇を生む素地は決して撤収することができません。

 

 

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