柵の中で富を奪い合おう

巨大な鏡で山間の寒村に陽光=イタリア(時事通信)

「イタリア北部の住民がわずか185人のビガネッラ村は、四方を高い山に囲まれ、冬季には太陽の光がほとんど直接、村に届かず、暗くて寒い冬を耐え忍ぶことを余儀なくされていた。しかし、このほど、周囲の山腹に、横8メートル、縦5メートルの巨大な鏡を設置。この鏡はコンピュータ制御によって太陽の位置を自動的に追い、反射によって村に陽光をもたらした。イタリアのANSA通信によると、ミダリ村長は「建築家の友人が7年前に解決方法を模索し始めてくれてから、7年間、この瞬間を待ちわびてきた」と喜びを語った。鏡の設置には約10万ユーロ(約1500万円)かかったという。」

民法の206条をご覧下さい。

第206条〔所有権の意義・内容〕

「所有者は法令の制限内に於て自由に其所有物の使用,収益及び処分を為す権利を有す」

「富は有限である」、それが私たちを寿命という与えられた時間のなかであらゆることに駆り立てている、基本的な強迫観念です。

たとえば土地はかつて複雑な封建的制約を受けていました。

そこで「フランス人権宣言」は、所有権を神聖不可侵なのだと宣言し、これによって近代市民社会とは「所有権の絶対」が保障されている社会なのだという了解が世界に行き渡りました。

「所有」は「有限の富」を「有限の生命」のなかでできるかぎり自分の元に呼び寄せる、もっとも基本的なツールだと考えられているのです。

しかしもし、「富は有限である」という強迫が砕けたなら、「所有」の概念はいまと同じ形を保ち続けるのでしょうか。

そのときはわたしたちは、いまのあがき方を(つまり生き方を)、多少なりとも変えるのかもしれません。

フラードームなどで有名な数学者バックミンスター・フラーは、啓蒙書「宇宙船地球号操縦マニュアル」のなかで、富に関して、私たちがあまり聞き慣れていない概念を以下のように披露しています。

「結論としていえば、富の物理的構成要素、つまりエネルギーは減少することはあり得ず、その形而上的な構成要素、つまり専門知識はふえるだけである、ということだ。

ということは、われわれの富というものは、使うほどふえるということになる。

つまり、エントロピーとは逆に、富はふえるだけである。

エントロピーが、エネルギーの離散がひきおこす混乱の増加であるのに対して、富とは局部的に見れば増加した秩序ということになる。

すなわち、物理的な力を、人間の形而上的な能力によってつねに秩序づけ、それを、部分的に把握されながらつねにひろがっている宇宙の中に凝縮してゆくこと、それが富なのである。」

フラーは”もともと富は強迫されているように枯渇するものではなく、すぺての人間にとって十分な量があるものだ”だとしているのです。

そしてそれを有限にしているのは、権力という柵の仕切り方にすぎないのだと分析します。

富が有限でないなら、マルクスがいうような階級闘争も必要なかったのです。

イタリアの山村、ビガネッラ村に185人しか住民がいないのは、きっと日当たりが無いという、資産価値の認められない場所だったこともあるのでしょう。

ただしニュースのように鏡で届くようにすれば、もともとの太陽というあらゆる富の根元は(それは生命の維持にもっとも必要なエネルギーです)、どの場所にでもさんさんと平等にふりそそいます。

鏡を一枚用意するだけで、その土地に「所有」する必要などない陽光が訪れました。

私たちのしがみつく「所有」という概念も、何百年の後、国境という権力の柵が崩壊して、「富」というものの真実の姿が現れる日までの”時限法理”なのかもしれません。

 

 

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