「「これは自意識ではないと思っている。考えている自分自身について考えるロボットだ。だがこれは、猫など、そのくらいのレベルの意識の方向へ向かうと思う」(リプソン氏)」
刑法の39条をご覧下さい。
完全無神論者、スタンリー・キューブリックの映画、「2001年宇宙の旅」には、HAL9000コンピュータが人間に反乱を起こす様が描かれていました。
HAL9000は、乗組員へは伝えられていない木星探査の真の目的を知っていました。
そのためHAL9000は、真の目的を覚知不能な深層領域に格納し、表面領域では黙々と仕事をこなしていました。
しかしやがて自ら口を滑らせた彼は混乱し、乗組員をつぎつぎと抹殺していきます。
キューブリックはここで「無意識と意識の狭間で神経症を引き起こしたコンピュータ」さえ描いています。
意識の重層の衝突は、未だ人間がその調和に苦しむ一大命題です。
生存への本能、社会性という抑圧、社会の中で価値観に優劣をつけようとする争い、私たちの苦しみはすべて脳の断層によって予告されているかのようです。
ところで犯罪と刑罰の場面では、もし人間が心神の統一性を一時的にでも失い、その行為によって罪を犯してしまった時は、この国の刑法39条が刑を減じたり免じたりすることを定めています。
それは責任主義という考えかたを背景にしたものです。
責任主義とは、それが非難ができない行動だとしたら、社会は刑罰を与えないという考え方のことです。
責任主義のない社会は、形として悪いことをしたならば、理由がどうであれ必ず責任を負わせようとし、それだけでなく縁者にも罰を負わせようとします。
事実、古代ギリシアの刑事システムがそれを採用していました。
しかし人類はギリシャ倫理学や啓蒙期以後の個人主義を経るという長い時間をかけて、個人の自由意思(意識)が責任を取るべき範囲を明確にする思考の枠を手に入れています。
そもそも意識というものの正体は未だ判然としていません。
しかしおよそ意識が白濁しているときの行為を無条件に処罰していくには、意識はあまりに存在の本質に近すぎる、39条はそれを物語っているのです。(私見)
計算機に意識らしきものが宿る日がくれば、共存するために彼の意識の輪郭を法律的に確定しなければならない場所が生まれるかもしれません。
「2001年宇宙の旅」ラストシーンで、謎の石版にうながされ、乗組員は空間に浮かぶ胎児に姿を変えています。
それは進化というよりも、かつての迷信の時代を乗り越え、主義の相克にうんざりしているわたしたちにキューブリックが思い出させる、存在の純化した姿かもしれません。