フレンチブルは宙に舞い飼い主にさようならと言った

犬殺害:6階から投げ落とした女を書類送検 札幌中央署(毎日新聞)
「調べによると、女は8月28日午後3時ごろ、同区内のドラッグストアで、同区の主婦(31)が買い物の間に店先につないていたフレンチブルドッグ(雌、5歳)を盗み、自宅マンションに連れ帰った疑い。さらに、同31日午後4時55分ごろ、犬の目撃情報を元に飼い主らが自宅に訪ねてきたことから、犬を6階のベランダから投げ落とした。約18メートル下の路上に落ちた犬は即死した。」

動物愛護法の第27条をご覧下さい。

動物の愛護及び管理に関する法律

第27条

「愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。(以下略)」 

人が動物をかわいがる動機にはさまざまなものがあります。

誰かにとってそれは人の家族とまったく同じくかけがいのない存在だからであり、誰かにとってそれを愛でるのは単に自分の寂しさを埋めるためかもしれず、また誰かにとってそれは自分を彩るひとつのアクセサリーにすぎないかもしれません。

いずれの場合も対象となる動物にとってみれば差し出せる命は一つであり、自分をもらいうけた人間の側がどれほど対生命という場面で成熟した存在であるのかなど知ったことではありません。

日本の法律が30年以上も前から動物愛護法という形で人が愛護動物をモノのようにむやみに扱うことを禁じているのも、未熟な人間が愛護動物の面前に立つことの含む憂慮が当時からたびたび現実化して、人々の胸をひどくかきむしる事件が続いたからにほかなりません。

そもそも人間は毎日凄まじい数の牛や豚の首を落として食卓に並べている存在であり、極めては刑法も飼い犬を器物としか見ていない以上、愛護動物だけをことさらに法律で保護することには、哲学的には形式的一貫性を欠いてしまっているのかもしれません。

しかし法律というものが究極には社会の安寧を維持するための文章群である以上、その哲学的な統一性よりも、社会の納得や得心が優先原理になるのは社会の道具としてより自然なことだともいえます(私見)。

そこで一般人の心にとってあまりにも大きな存在である愛護動物への危害に対して、社会は愛護動物の扱いに関する特別法たる動物愛護法を用意し、一般法である刑法より重い罰を科しています。

単に自分をなぐさめるために使う玩具を盗んできたかのごとく、生命に対する姿勢があまりにも未熟な女性が、飼い主にとってなによりも大切だったはずの犬を盗み、物のように窓から投げ捨てました。

5歳のフレンチブルは6階の窓から路上までの刹那、きっと真の飼い主と過ごした5年間の幸福な日々を思い出したにちがいありません。

わたしたちはこれからも物言わぬ友達、愛護動物たちをよりよく守るため、動物愛護法に改正を重ねていくことでしょう。

そのことが法を成熟させ、なによりも人をより成熟した存在にしていくはずです。
 
 
 

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