子猫殺し:直木賞作家・坂東さんがエッセーで告白(毎日新聞)
「坂東さんは「避妊手術も、生まれてすぐの子猫を殺すことも同じことだ」との趣旨の主張をしているが、日本経済新聞社には抗議や非難が殺到、動物保護団体も真相究明を求めている。」
母体保護法の14条1項をご覧下さい。
第14条(医師の認定による人工妊娠中絶) 一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの |
ねこの話を一旦人間に置き換えて、日本の刑法が生命というものをどうに規定しているのかを少し見てみます。
日本の刑法では、人間の子供が母体から一部でも露出した時点で、生命・身体に対する罪の保護客体とすることにしているといわれます。(一部露出説 通説・判例)。
それは刑法の設置した生命・身体に対する罪が独立の生命を有する個体の生命・身体を保護法益とするものである以上、胎児が母体から独立して直接に侵害の対象となった時を生命の保護開始時期とするのが合理的と考えられるからです。
これによれば胎児が母体から露出途中に誰かが胎児の命を奪ったならば、たとえ胎児の体半分がまだ母胎に残っていたとしても、すでにそれは堕胎罪とは呼ばれず殺人罪だということになります。
また、もし胎児でいる間に公害などで危害が加えられ、その結果子供が障害を持って生まれてきた場合、学説上の通説は傷害罪の成立を否定します(判例は肯定)。
何故ならば胎児に対しては堕胎罪が独立保護するのみであり、それ以外に胎児は刑法は未だ保護対象と見ていないと考えられるからです。
しかも母体保護法14条所定の事由があれば堕胎は許されており、刑法が胎児を保護する条文は事実上死文化しています。
このあたり論議のあるところですが、いずれにしてもわたしたちの刑に関する合意哲学は、未だ子宮の中にある生命を、母体外に出た生命に比べ前提としては(意図的に)ほぼ保護していないようです。
生物学上の見地とは異なり、刑法学が胎児と新生児を全く異なって扱うのは「生命は皆、最後に必ず終わる」という宿命から逆にたどって人のルールを構築した結果だといえます(私見)。
一旦出生という切符を手にした生命がある以上、その最後まで十全に燃焼させられるルールをつくることにも、わたしたちは意味を見つけられるはずだからです。
残念ながら猫は刑法上、器物としか扱われませんが、それを捨てることを持って生命そのものを語ろうとする人がいるならば、議論するための言葉を十分持たないわたしたちも顔がこわばって当然です。
社会哲学の反証に子猫の命を使うのは、あまりに酷いと感じる根元的理由がわたしたちにはあります。
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