身体の記憶が25条を深くする

衰弱知りながら給水停止・保護申請却下 障害者が孤独死(朝日新聞)
「市水道局は9月30日、男性の状況を区役所に知らせたが、水は止めたままだった。近くの住民は、男性が公園で水をくんでいる姿をたびたび目撃している。区役所はその日のうちに、ケースワーカー保健師を男性宅に派遣。男性は「生活保護を申請したい」と伝えた。だが、区役所は即座に保護を開始できる「職権保護」を適用しなかった。市内に住む次男から食料の差し入れがあるとして、「生死にかかわる状況ではない」と判断したからだ。」

生活保護法の第25条第1項をご覧ください。

第25条(職権による保護の開始及び変更)

「保護の実施機関は、要保護者が急迫した状況にあるときは、すみやかに、職権をもつて保護の種類、程度及び方法を決定し、保護を開始しなければならない。」 

産業革命の勃興による過酷な労働環境に疲弊した19世紀を経て、20世紀のわたしたちは福祉国家理念という思想を建築しました。

それは経済的弱者を保護し、単に機会が皆に平等だというだけではなく、生まれ与えられた能力の差や、運命の差に皆が一生を支配されないための実質的平等をつくろうという考え方です。

この思想を社会的に権利化したものを社会権と呼びます(私的定義)。

わたしたちの国でいう社会権とは、国民が人間に値する生活を営むことを保障するものであり、それは法律的に言い換えればわたしやあなたが困窮したときに国家に対して堂々と一定の行為を要求する権利のことです。

わたしたちの憲法では社会権の具体化した条文として生存権や教育を受ける権利、あるいは勤労の権利などが表現されています。

つまり生存権などの思想は「人間がかつて頭で考え出した形式平等」に対して、歴史的にわたしたちの身体感覚が出してきたNOという結論なのであり、自由を維持するためにもそれはいつも社会にはっきりと用意されていなければなりません。

さて、生活保護法とは、その生存権を理論的足がかりに、わたしやあなたがもし生活に困窮してしまうことがあったなら国が保護を行い最低限度の生活を保障するとした法律のことです。

生活保護は原則として本人の申請で開始しますが、生活に困窮し、現に保護を必要とする状態にある人のことも生活保護法は要保護者と呼んで想定しています。

そして25条は、その要保護者が急迫した状況にあるときに、実施機関が申請がないからとこれを手をこまねいて見ていることを許さず、「保護を開始しなければならない」という必要的開始を条文として明記しています。

それは基本ルールとして食べ物や水も金銭で調達することになっているこの資本主義社会において、交換チケットである金銭が途絶えることは一つの命の死を意味するからにほかなりません。

(それはもはや、”生存権とはどこまで請求できる権利なのか”といったレベルの議論でさえありません)

進学の”機会だけが”平等である、就職や起業の”機会だけが”平等である世界が百年単位では間違っていたことを、わたしたちの体の記憶は知っています。

わたしたちの街の中央にその市役所を建立し維持させ続けているのも、自由と不平等の歴史の甘渋を知るその身体の記憶によるものにほかなりません。

25条は権力を委託されたはずの機関が困窮の声を軽んじることをあらかじめ禁忌し、私やあなたの身体の記憶こそが社会の形を規定していることを再言しています。

むずかしいことはなにもありません。

役所や法というただの手段が、命より前に存在するはずはないのです。

 

 

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